徳川家霊廟とは|増上寺と寛永寺にあった将軍の廟所
「徳川家霊廟」とは、江戸幕府の歴代将軍を祀るために増上寺(東京・芝)と寛永寺(東京・上野)に築かれた墓所建築の総称です。日光東照宮が初代家康を神として祀る神社建築であるのに対し、こちらは歴代将軍一人ひとりのために営まれた仏式の廟所という違いがあります。
15人の将軍のうち、初代家康は日光東照宮に東照大権現として、3代家光は同じく日光の大猷院に葬られました。残る将軍の多くは増上寺・寛永寺に六人ずつ分かれて眠り、最後の15代慶喜だけは徳川家が武家でなくなった後の人物として、谷中霊園に神式で葬られています。

なぜ「世界遺産級」と言われるのか
徳川家霊廟は「今残っていれば世界遺産間違いなし」とまで言われます。その理由は、建物の豪華さと規模にあります。霊廟は本殿・拝殿を石の間でつないだ権現造りを基本に、勅額門、中門、唐門、透塀が何重にも本殿を囲み、柱や梁、欄間の一面に極彩色の彫刻と金具、漆がほどこされていました。江戸幕府の総力を挙げた建築で、とくに秀忠の台徳院殿霊廟は、のちに家光が建て直した日光東照宮の手本になったとも言われます。日光の社寺はすでに世界遺産に登録されているが、東京の霊廟群はそれと肩を並べる、あるいはそれ以上の建築だったと評価されてきました。
その姿は、残された白黒写真や、英国王室に贈られていた精巧な模型、そして近年のCGによる復元で少しずつよみがえりつつあります。将軍たちが暮らした城は江戸城で書いています。将軍たちがそれぞれどこに眠っているのかは徳川将軍15人の墓はどこにあるのかでまとめています。
なぜ菩提寺が二つあるのか|増上寺と寛永寺
増上寺はもともと浄土宗の名刹で、家康が江戸入りした際に菩提寺と定めたことに始まります。一方の寛永寺は、家光の代に天海僧正が江戸城の鬼門(北東)を封じる目的で創建した天台宗の寺院で、比叡山になぞらえて「東叡山」の山号を持ちます。
将軍の埋葬先がこの二寺に分かれた明確な理由は史料上はっきりしないが、結果として次のように六人ずつに分かれています。
増上寺:2代秀忠、6代家宣、7代家継、9代家重、12代家慶、14代家茂
寛永寺:4代家綱、5代綱吉、8代吉宗、10代家治、11代家斉、13代家定
将軍十五人それぞれの眠る場所は徳川将軍15人の墓はどこにあるのかで一覧にしています。
焼失した国宝・台徳院殿霊廟
増上寺の霊廟でもっとも壮麗だったと伝わるのが、2代秀忠のために家光が1632年に造営した台徳院殿霊廟です。彫刻や彩色、金具に至るまで贅を尽くした建築で、後年の日光東照宮造営の手本になったとも言われ、1930年には国宝に指定されました。
しかしこの霊廟群は、1945年5月の東京大空襲でそのほとんどを焼失しました。戦後まで残っていれば、日光と並ぶ、あるいはそれ以上とも評される江戸建築の傑作を東京都心で目にできたはずでした。
▽ よく語られる話
「江戸時代の将軍廟建築で今に見られるのは日光東照宮だけ」としばしば語られます。
▼ 史実ではこうです
実際には東京の増上寺・寛永寺にも、日光に匹敵する規模と装飾を持つ霊廟群が1945年まで確かに存在していました。見られなくなったのは「最初からなかった」からではなく、戦災で焼け落ちてしまったためです。
模型がなぜ英国にあったのかは台徳院殿霊廟の模型で詳しく書いています。
英国王室に渡った十分の一の模型と、百年ぶりの里帰り
台徳院殿霊廟の失われた姿を今に伝える貴重な資料が、精巧な1/10スケール模型です。実物がまだ健在だった1909〜1910年頃、東京美術学校(現・東京藝術大学)の監修のもとで製作され、建築を古宇田実教授、彫刻を高村光雲教授が手がけたと伝わります。木組みや漆、金銀の蒔絵など、実物と同じ技法が用いられた精密なものでした。
この模型は1910年の日英博覧会(ロンドン)に出品された後、当時のイギリス国王ジョージ5世に贈られ、以後100年以上イギリスで保管されてきました。東京の実物は空襲で失われたが、模型は戦火を免れ、近年になって百年ぶりに日本へ戻りました。現在は増上寺の宝物展示室で公開されています。実物のモノクロ写真しか残っていなかった内部の装飾を、立体で確認できる史料としても貴重で、模型の修復過程を記録するデジタル復元プロジェクトも行われています。
模型の製作経緯や見学情報については、台徳院殿霊廟の模型|なぜ100年間イギリス王室にあったのか、増上寺で見られる今の姿で詳しく紹介しています。
今も残る建物|空襲を生きのびた門と宝塔

増上寺の境内に残る水盤舎。もとは清揚院殿(徳川綱重)の霊廟にあった(筆者撮影)

水盤舎の案内板。「徳川将軍家霊廟建築を伝える数少ない遺構」とある(筆者撮影)
増上寺・寛永寺とも、霊廟の主要部分は失われたものの、焼け残った一部の門や建物が重要文化財として今に伝わっています。
増上寺:台徳院霊廟の惣門(芝公園内に現存)、勅額門・丁字門・御成門(埼玉県所沢市の狭山山不動寺に移築)、有章院霊廟の二天門(東京プリンスホテル敷地内)
境内にはこのほか、家光の三男で6代家宣の父にあたる徳川綱重(清揚院殿)の霊廟にあった水盤舎も残ります。昭和の空襲を免れ、明治時代の解体・移築を経て現在地に移されたもので、こちらも徳川将軍家霊廟建築を伝える数少ない遺構のひとつです。

寛永寺:厳有院霊廟・常憲院霊廟の勅額門、水盤舎、奥院唐門、奥院宝塔

寛永寺側では、5代綱吉の宝塔が青銅製だったために戦火を免れて現存する一方、8代吉宗の墓所は本人が敷いた倹約令を反映してか、質素な石造りだったと伝わります。将軍ごとの人柄が墓所の意匠にもにじんでいるのが興味深いところです。
境内にはこのほか、寛永寺創建当初に建てられた旧寛永寺五重塔(重要文化財)も残ります。現在は上野動物園の敷地内にあり、寺の管理を離れているが、江戸時代を通じて焼失と再建を繰り返しながら今に伝わる貴重な建築です。

墓所が改葬されたときの遺骨調査については増上寺の将軍の墓の発掘調査でわかったことをどうぞ。
なぜ再建されなかったのか
戦後、焼け跡となった霊廟は再建されませんでした。1958年、文化財保護委員会による発掘調査が行われ、土葬されていた遺体は東京・桐ヶ谷で荼毘に付されたのち、増上寺境内の安国殿裏にある現在の徳川家墓所へ改葬されました。かつて将軍一人ひとりに営まれていた壮大な個別の廟所は、戦後は八基の宝塔が並ぶ、規模を大きく縮小した墓所としてまとめられています。
寛永寺側の霊廟についても同様に、戦後は非公開の状態が続いており、特別公開の際にごく限られた形で見学できるにとどまっています。
将軍たちの墓は改葬され、いまは増上寺の徳川将軍家墓所にまとめられている(将軍の墓の一覧)。
今、その場所を訪ねると
増上寺の徳川将軍家墓所は、現在も一般向けの特別拝観を受け付けており、宝物展示室とあわせて見学することができる(拝観時間・休館日は増上寺公式サイトで要確認)。一方の寛永寺の霊廟は通常非公開で、公開は寺の発表する特別公開の機会に限られます。

現在の寛永寺本堂にあたる根本中堂は、実は創建当初の建物ではありません。幕末の上野戦争(1868年)で旧本堂を含む境内の大半が焼失したため、明治12年(1879年)に川越の喜多院から本地堂を移築したものが今の根本中堂です。

空襲のあと、増上寺の将軍たちの墓は改葬され、そのとき行われた遺骨の調査で将軍たちの素顔が明らかになりました。この話は増上寺の将軍の墓の発掘調査でわかったことにまとめています。見学できる墓所の情報は徳川将軍15人の墓はどこにあるのかでもまとめています。
よくある質問
Q. 台徳院殿霊廟の模型はどこで見られますか?
A. 増上寺の宝物展示室で常設展示されています。製作の経緯や見学情報はこちらの記事にまとめています。
Q. 番組で紹介されたCG復元映像は、放送後も見られますか?
A. 放送後は、NHKの見逃し配信サービスなどで一定期間視聴できる場合があります。配信の有無や期間は番組公式サイトで確認するのが確実です。
Q. 徳川家霊廟が再建される予定はありますか?
A. 今のところ、実物の霊廟を再建する具体的な計画は公表されていません。焼失前の姿は、模型やCGによる復元でしのぶことができます。
Q. 増上寺・寛永寺の徳川将軍家墓所は誰でも見学できますか?
A. 増上寺の徳川将軍家墓所は一般向けの特別拝観を受け付けている一方、寛永寺の霊廟は通常非公開で、寺が発表する特別公開の機会に限られます。
東京の中心部に、日光にも劣らない規模の将軍廟が存在していたことは、意外と知られていません。次に増上寺や上野を訪れる機会があれば、今は静かな墓所の奥に、かつてどれほど壮麗な建築群がそびえていたのか、想像してみるのも一興でしょう。
