戦国武将の病気と死因:医学天正記に残る蒲生氏郷の腹水、小早川秀秋の「酒疸」、秀吉の最期

名護屋の陣で病に伏す蒲生氏郷と、交代で診る医師たち(イメージ・イラスト)

戦国武将というと、合戦で討ち死にする姿が思い浮かぶ。だが実際には、天下の行方を決めた武将の多くは、戦場ではなく病の床で死んでいる。しかもその病が、合戦の勝ち負けや家の存続を左右したことも少なくない。当時の名医・曲直瀬玄朔が残した診療録『医学天正記』などを手がかりに、武将たちの病と最期をたどってみたい。

※この記事の絵は、当時の様子を描いたイメージ(イラスト)です。

この記事のポイント
  • 蒲生氏郷は名護屋で発病し、腹水とむくみに苦しんで四十歳で死去。毒殺説は今日では否定的に見られている
  • 小早川秀秋は、玄朔に大量の飲酒による黄疸「酒疸(しゅたん)」と診られ、二十一歳で亡くなった
  • 豊臣秀次は、秀頼誕生のあと喘息のような発作に悩まされていた
  • 毛利輝元は朝鮮在陣中に倒れ、玄朔が海を渡って治療したと伝わる
  • 豊臣秀吉の死因は、下痢・腹痛・衰弱の記録から諸説あり、今も確定していない
  • 病名は漢方医学の言葉で書かれており、現代の病名への当てはめは推定にとどまる
目次

戦国武将の病気と死因 一覧

まず、この記事で取り上げる武将の最期を一覧にしておく(年齢は数え年)。

人物 亡くなった年・享年 記録に残る症状と、よく挙げられる見立て
蒲生氏郷 文禄4年(1595)・40歳 腹水、顔や手足のむくみ。直腸がん・肝臓がんなどと推定
豊臣秀次 文禄4年(1595)・28歳(切腹) 気のふさぎによる「喘」。喘息のような発作
豊臣秀吉 慶長3年(1598)・62歳 下痢、腹痛、食欲不振、衰弱。大腸がん・胃がん・脚気・尿毒症など諸説
小早川秀秋 慶長7年(1602)・21歳 黄疸、みぞおちのしこり、飲食できず喉が渇く。玄朔は「酒疸」と診断
加藤清正 慶長16年(1611)・50歳 帰国の途中で発病し熊本で死去。毒殺説は俗説とされる
徳川家康 元和2年(1616)・75歳 発病から約三か月で死去。胃がん説が有力とされる
毛利輝元 寛永2年(1625)・73歳 朝鮮在陣中に病に倒れ、玄朔が治療。最期は萩で病没
藤堂高虎 寛永7年(1630)・75歳 晩年は眼の病で失明。江戸で死去

蒲生氏郷 ── 名護屋で倒れた「秀吉が恐れた男」

蒲生氏郷は、信長に見込まれて娘を与えられ、秀吉のもとで会津九十二万石を任された名将である(松坂城も氏郷が築いた)。

その氏郷が倒れたのは、朝鮮出兵の拠点・肥前名護屋に在陣していた文禄二年(1593)のことだった。『医学天正記』によれば、そこから亡くなるまでおよそ三年、症状は続いた。腹に水がたまり、顔や手足がむくんでいく。現代の目で見れば、直腸がんや肝臓がんなど、腹部のがんが疑われる経過である。

秀吉は施薬院全宗を医師団の指揮役とし、曲直瀬玄朔らを長老格とする九人の医師に交代で治療させた。それでも氏郷は快復せず、文禄四年(1595)二月、伏見の屋敷で四十歳で亡くなった。

▽ よく語られる話
氏郷の才を恐れた秀吉、あるいは石田三成が、毒を盛って殺した。
▼ 史実ではこうです
秀吉は九人もの医師団を組んで治療に当たらせていた。また、医学天正記に残る症状は数年がかりでゆっくり進む病のもので、急な中毒の経過とは合わない。こうした点から、毒殺説は今日では否定的に見られている。

氏郷の死は、利休の弟子たちの運命のひとつとしても語られる(千利休の弟子たちはどうなったのか)。

豊臣秀次 ── 秀頼誕生と「喘」の発作

関白秀次は切腹で生涯を終えたが、その前から体の不調を抱えていた。

文禄二年(1593)八月に秀頼が生まれたころから、秀次は喘息のような発作に悩まされるようになった。玄朔はこれを、気のふさぎから来る「喘」として診ている。歴史学者の宮本義己氏は、玄朔の記録から、秀頼誕生後の秀次が心身ともに不安定だったことを指摘している。

玄朔が秀次を往診したことが、かえって秀次の失脚につながったとする説もある。この話は医学天正記と曲直瀬玄朔の記事でくわしく書いた。事件そのものについては秀次事件はなぜ妻子三十九人にまで及んだのかもあわせて読んでほしい。

毛利輝元 ── 朝鮮の陣で倒れた総大将

文禄の役で、毛利輝元は三万ともいわれる大軍を率いて朝鮮に渡った。その輝元が在陣中に病に倒れる。秀吉は玄朔を名護屋から海の向こうへ送り、輝元を治療させたと伝わる。

総大将が動けなくなれば、軍勢も動けない。慣れない異国の冬の寒さもあり、朝鮮の陣では多くの将兵が病に苦しんだ。大名の体調管理は、そのまま戦の遂行能力の問題だった。

輝元はこのときは持ち直し、関ヶ原では西軍の総大将に担がれる。敗戦後は周防・長門の二国に減らされ、寛永二年(1625)、萩で七十三歳で亡くなった。輝元が築いた広島城は、その後、毛利家の手を離れている。

豊臣秀吉 ── 天下人の死因は、いまも決まっていない

秀吉は慶長三年(1598)三月、醍醐の花見を盛大に催した。そのわずか二か月後から体調を崩し、下痢、腹痛、食欲不振、手足の痛みに苦しむようになる。薬も効かず、みるみる痩せ衰え、失禁もあったと伝わる。

そして同年八月十八日、伏見城で六十二歳で亡くなった。

死因として挙げられてきたのは、大腸がん・胃がん、赤痢などの感染症、脚気、尿毒症などである。朝鮮側の後世の史書には毒殺説まで見えるが、裏づけは乏しい。症状の記録はあるものの、決め手となる診断は残っておらず、秀吉の死因は今も「不明」とするのが正確だろう。

秀吉の死とともに朝鮮からの撤兵が決まり、豊臣政権は五大老・五奉行の合議に移る。その均衡が崩れた先にあったのが関ヶ原だった。

小早川秀秋 ── 玄朔が書いた「酒疸」

関ヶ原で西軍を裏切り、東軍勝利を決定づけた小早川秀秋。戦後は岡山五十万石余を与えられたが、わずか二年後の慶長七年(1602)十月、二十一歳で急死した。

その一年あまり前、慶長六年(1601)の七月に、秀秋は玄朔の診察を受けている。『医学天正記』には次のような症状が書き留められている。

  • 大量の飲酒による黄疸がひどくなっている
  • みぞおちのあたりにしこりがあり、硬く腫れて痛む
  • 飲み食いができず、喉が渇く
  • 酒を飲むと吐き、舌は黒く、尿は赤い

玄朔の診断は「酒疸(しゅたん)」。酒による黄疸のことで、現代でいえばアルコールによる肝臓の病、肝硬変などが疑われる状態である。

秀秋の早すぎる死は、裏切った大谷吉継の祟りだと語られてきた。だが玄朔の記録を見るかぎり、秀秋の体は関ヶ原の翌年にはすでに酒でむしばまれていた。くわしくは小早川秀秋はなぜ裏切ったのか?関ヶ原の“主役”と21歳での急死の真相で書いている。

加藤清正と徳川家康 ── 「毒殺」「天ぷら」の俗説

有名な武将ほど、死因には尾ひれがつく。

加藤清正は慶長十六年(1611)、二条城で家康と秀頼の会見に立ち会ったあと、熊本へ帰る途中で発病し、六月に五十歳で亡くなった。会見の席で家康に毒を盛られたという話が後世に広まったが、確かな裏づけはない。

徳川家康は元和二年(1616)一月に鷹狩り先で倒れ、四月に駿府城で七十五歳で亡くなった。「鯛の天ぷらを食べて死んだ」という話がよく知られているが、倒れてから亡くなるまでには約三か月ある。天ぷらは発病のきっかけとして語られるにすぎず、病そのものは胃がんだったとする説が有力とされる。

藤堂高虎 ── 築城の名手が、最後に光を失う

藤堂高虎は七度主君を替えたことで知られ、秀長、秀吉、家康と仕えて築城の名手として名を上げた(藤堂高虎はなぜ築城の名手になったのか)。

慶長十一年(1606)には江戸城の修築に加わり、天守の設計や二の丸・三の丸の増築を手がけている。高虎もまた、玄朔の診療を受けた一人として名前が残る。

晩年の高虎は眼を患い、寛永七年(1630)には失明していた。同年十月、江戸で七十五歳で亡くなり、上野の寒松院に葬られた。数々の城の縄張りを引いた武将が、最後は光を失っていたことになる。

病名はどこまでわかるのか

ここまで「がん」「肝硬変」「喘息」といった現代の病名を使ってきたが、これらはあくまで記録に残った症状からの推定である。

当時の医師は、漢方医学の考え方で病を捉え、書き記した。「酒疸」「喘」「気鬱」といった言葉は、今の病名とぴったり一対一には対応しない。また、同じ記録を読んでも、研究者や医師によって見立てが分かれることは珍しくない。

それでも、四百年前の武将の体の具合がここまで具体的にわかるのは、玄朔のような医師が患者ごとの記録を残したからだ。「英雄」の体もまた、腹が張り、むくみ、咳き込む、ふつうの人間の体だった。

よくある質問

Q. 戦国武将の死因でいちばん多いのは何ですか?
A. 統計のような形では分かりませんが、大名クラスの武将は、討ち死によりも病死のほうが多かったと考えられます。ただし病名が特定できる例は限られます。

Q. 秀吉の死因は結局何だったのですか?
A. 大腸がん・胃がん、感染症、脚気、尿毒症など諸説あり、確定していません。

Q. 蒲生氏郷は毒殺されたのではないのですか?
A. 毒殺説はありますが、秀吉が医師団を組んで治療させていたこと、症状が数年にわたって続いたことから、病死と見るのが一般的です。

Q. 小早川秀秋の死因は祟りですか?
A. 祟りの話は後世の創作とみられます。医師・曲直瀬玄朔の記録では、秀秋は大量の飲酒による黄疸「酒疸」と診断されていました。

Q. 番組を見逃しました。再放送や配信はありますか?
A. NHKの番組は、再放送やNHKプラス・NHKオンデマンドで配信される場合があります。最新の情報は番組の公式サイトで確認してください。

まとめ

蒲生氏郷が名護屋で倒れなければ、秀次に病がなければ、小早川秀秋が酒に溺れなければ――。歴史に「もし」は禁物だが、武将たちの病が、政権の行方を何度も揺さぶってきたことは確かである。

そしてその枕もとには、いつも医師がいた。曲直瀬玄朔が書き残したカルテは、合戦の記録とは別の角度から、戦国の終わりを照らしている。

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