松尾山城(関ケ原町):小早川秀秋が陣を敷いたのは、城だった

松尾山城の主郭から関ヶ原の盆地を見下ろすイメージ(イラスト)

松尾山城は、関ヶ原の南西にそびえる標高二百九十三メートルの松尾山にあった山城です。小早川秀秋が陣を構えた場所として知られていますが、あそこは「山」ではなく「城」でした。もとは浅井氏が国境の押さえに使った城で、関ヶ原の直前に石田三成が改修させ、そこへ秀秋が押し入って居座ります。城域は東西四百メートル、南北二百五十メートル。土塁と切岸、枡形虎口がいまも残ります。

この記事のポイント
  • 関ヶ原の合戦場を見下ろす標高二百九十三メートルの山城。長亭軒城とも呼ばれます
  • 浅井長政が江濃国境の押さえとして家臣の樋口直房を置いた城でした
  • 関ヶ原の直前、三成の依頼で伊藤盛正が改修。そこへ小早川秀秋が押し入りました
  • 城域は東西四百メートル・南北二百五十メートル。主郭の切岸と土塁、枡形虎口、竪堀が残ります
  • 登りはおよそ三十五分。麓の無料駐車スペースは六台ほどです
目次

陣ではなく、城だった

関ヶ原の布陣図を見ると、松尾山には「小早川秀秋」とだけ書かれています。そのせいで、秀秋が何もない山の上に陣幕を張ったように思われがちです。実際には、ここには以前から城がありました。

大永年間には近江の浅井氏に仕える堀氏が入っていたと伝えられます。元亀元年(1570年)、小谷城の浅井長政は、近江と美濃の国境を押さえる城としてこの山を重く見て、家臣の樋口直房を城主に据えました。その樋口が織田方へ投降すると、信長の家臣・不破光治が城主となります。信長が近江を平定してしまうと国境の意味が薄れ、城は使われなくなりました。

つまり松尾山城は、関ヶ原の三十年前まで現役だった城です。廃れていたとはいえ、曲輪も堀切も地形として残っていました。合戦の直前にここが選ばれたのは、偶然ではありません。

なぜ秀秋はこの山を選んだのか ── 押し入った城

慶長五年(1600年)、石田三成はこの城の値打ちに気づいていました。関ヶ原へ東軍を引き込むなら、盆地の南西を押さえる高地が要ります。三成は大垣城主の伊藤盛正に、松尾山城の改修と守備を任せました。

ところが九月十四日、小早川秀秋が一万五千を率いてこの山に現れ、伊藤盛正を追い出して城に入ってしまいます。味方のはずの西軍の城を、味方が力ずくで奪った形です。この時点で、秀秋の立場は普通ではありませんでした。

秀秋がここを欲しがった理由は、山に登ってみるとよく分かります。関ヶ原の盆地がまるごと見えるのです。どちらに付くか決めかねている者にとって、両軍の動きが同時に見える場所ほど都合のよい席はありません。しかも改修済みで、すぐに使える。秀秋がなぜ裏切ったのかという話は心理の問題として語られがちですが、その前に「どこに立ったか」という地形の問題があります。

松尾山の陣から関ヶ原の盆地を見下ろす小早川秀秋のイメージ(イラスト)

松尾山の陣から盆地を見下ろす場面のイメージ(イラスト)。山の上の陣幕と、眼下に広がる霧の盆地。手前に絵図が置かれている。

残っている遺構 ── 主郭の切岸と枡形虎口

いま山頂に立つと、思っていたより平らな場所が広いことに驚きます。城域は東西四百メートル、南北二百五十メートル。陣を張るための即席の造成ではなく、きちんとした山城の規模です。

主郭は城台と呼ばれ、周囲を切岸と土塁で囲んでいます。北側には帯曲輪がめぐり、斜面には竪堀が落ちます。南側には枡形虎口と、馬出しのような形の曲輪が付きます。枡形も馬出しも、戦国末期の城づくりの語彙です。浅井・織田の時代の遺構と、関ヶ原直前の改修が重なっていると見られています。

石垣はほとんどありません。土を削り、盛って形をつくる城です。美濃・近江の国境地帯には菩提山城のような大きな土の山城がいくつもあり、松尾山城もその系譜に連なります。合戦の一日だけの舞台ではなく、この地域が長く国境だったことの証拠として見ると、遺構の意味が変わってきます。

山頂から何が見えるか

登りきった先は展望が開けています。北東に笹尾山、その手前に決戦地、東に桃配山。関ヶ原の布陣の主要な位置が、ほぼひと目で確認できます。

秀秋がこの眺めを半日ながめていたことを思うと、あの戦の見え方が変わります。どちらが優勢かを、報告ではなく自分の目で判断できる場所にいたのです。麓へ下りるということは、その特等席を捨てて一方に賭けるということでした。

同じ山にいながら寝返りに加わらなかった家臣もいます。松野主馬です。山頂に立って盆地を見下ろすと、同じ景色を見ながら違う答えを出した人たちがいたことが、少し実感できます。

関ヶ原の「陣」は、じつは城が多い

松尾山城のことが分かると、関ヶ原の布陣図の見方が変わります。あの図に並ぶ「◯◯陣跡」の多くは、まっさらな野原ではありません。中世から使われてきた山や砦の跡が、そのまま使われています。

石田三成が入った笹尾山も、北国街道を押さえる位置にある独立した丘です。南宮山には中世の山城の痕跡があり、毛利勢はそこへ入りました。近年になって注目されているのが玉城で、発掘調査で大規模な山城の姿が確認されています。三成が毛利輝元や豊臣秀頼を迎える本陣にするつもりだったのではないか、という見方も出ていますが、これは推定の域を出ません。

いずれにせよ、西軍は「たまたま集まった」のではなく、使える高地をあらかじめ押さえて布陣していました。西軍の布陣が有利だったと言われる理由は、この下地にあります。そして、その下地のいちばん重要な一角に、味方であるはずの秀秋が力ずくで入り込んでいたわけです。

駐車場と所要時間

麓の登山口のそばに、無料の駐車スペースが六台ほどあります。数が少ないので、休日は早めに着くか、ほかの駐車場から歩くつもりで行ってください。駐車場にトイレはありません。トイレは山頂近くにあります。

JR関ケ原駅からは歩いて三十分ほど。駅前でレンタサイクルを借りると早く着きます。古戦場の各陣跡をめぐるなら、自転車を借りてしまうほうが全体として楽です。

登山道は東海自然歩道として整備されていて、階段は少なく、ゆるやかな坂が続きます。登りは三十五分ほど、下りは三十分ほど。数人で歩くなら、そこに十分から三十分を足して考えてください。スニーカーでも歩けますが、雨のあとはすべるのでトレッキングシューズが安心です。登山口には貸し出しの木の杖が置かれています。

所要時間の目安は、往復と山頂での見学で一時間半。遺構を丁寧にたどるなら二時間。岐阜城と同じ日に回すこともできますが、どちらも登るので、体力に余裕を持たせた行程にしてください。

見学順 ── 登りながら城を読む

この城は、山頂だけ見て帰るともったいない城です。登山道そのものが城の南からの入口にあたるので、歩きながら読むのがいちばんです。

登りはじめて傾斜がゆるむところが出てきたら、そこが曲輪の跡です。平らな面と、その先の急な斜面。この繰り返しが山城の基本の形で、急な斜面は人の手で削った切岸です。道の脇に縦に走る溝を見つけたら、それが竪堀。斜面を横に移動できなくするための仕掛けです。

山頂に近づくと、道が折れ曲がって狭くなる場所があります。枡形虎口の跡です。まっすぐ入れないようにして、入ってきた敵を囲む構えになっています。ここを通ってから主郭に出ると、城としての順番が体で分かります。

主郭に着いたら、まず展望を楽しんで、それから足元を見てください。縁を一周すると、土塁の高まりと、その外側の切岸が残っているのが分かります。北へ少し下ると帯曲輪です。下りは同じ道を戻り、登りで見落とした平場を確かめながら歩くと、同じ道が違って見えます。

  • URLをコピーしました!
目次