- 白山林で馬を失った秀次(信吉)は、まず可児才蔵に馬を求めたが「雨降りの傘也」と断られた
- 木下勘解由左衛門利匡が自分の馬を秀次に与えて逃し、兄・助左衛門祐久とともにその場に踏みとどまった
- 兄弟は追撃する徳川勢と戦い、ともに討死した
- 利匡は高台院(ねね)の叔父、祐久は秀吉が「木下」を名乗っていた頃からの家臣という、古参の一族だった
- 戦死の地は現在の愛知県長久手市荒田に「木下勘解由塚」として残る
可児才蔵は、馬を求めた秀次を「雨降りの傘也」と突き放して去った。その顛末はすでに書いた。だが、馬を持たないまま徒歩で敗走する十七歳の総大将を、誰も助けなかったわけではない。才蔵に断られた直後、秀次の前に現れたのが木下勘解由左衛門利匡という武将だった。彼は自分の馬を差し出し、そして兄・助左衛門祐久とともに、その場に残った。
才蔵の次に現れた男
天正十二年(1584年)四月九日早朝、白山林(現・尾張旭市)で徳川方の奇襲を受けた秀次隊は総崩れとなった。乱戦で馬を失った秀次は、細ヶ根(現・長久手市荒田付近)まで徒歩で逃げ延びるが、すでに討死寸前まで追い詰められていた。才蔵に馬を求めて断られたのはこの直後とされる。そこに通りかかったのが木下勘解由左衛門利匡である。利匡は迷わず自分の馬を秀次に与えた。
木下勘解由・助左衛門とは何者か
利匡は通称「勘解由左衛門」、別名「利国」。生没年は不詳だが、高台院(ねね)の叔父にあたる人物で、山崎の戦い・賤ヶ岳の戦いにも従軍した秀次配下の武将である。兄の助左衛門祐久(のち入道して助休)は尾張の出身で、秀吉がまだ「木下」を名乗っていた頃からの与力・代官を務めた古参の家臣だった。天正十一年五月八日付の文書に「木下助左衛門入道助休」の署名が残っており、実在が一次史料でも確認できる。二人とも、天下人の縁戚・旧臣でありながら、歴史に大きく名を残すことのなかった武将である。
馬を与えて、その場に残るということ
利匡が秀次に馬を譲ったことで、総大将は脱出に成功する。だが利匡自身は、兄・祐久とともにその場に踏みとどまった。追撃してくる徳川方(水野忠重・丹羽氏次・大須賀康高・榊原康政らの部隊)を食い止めるためである。兄弟は力戦の末、ともに討死した。馬を差し出すという選択は、同時に自らが徒歩で戦場に取り残されることを意味していた。
名前だけが残った戦死の地
兄弟が斃れた場所は、現在の愛知県長久手市荒田9-1付近にあたる。昭和五十四年(1979年)三月、長久手町教育委員会(当時)によって花崗岩の碑が建てられ、「木下勘解由戦死処」と刻まれている。「木下勘解由塚」として長久手市の指定史跡になっており、今も静かに残る小さな碑が、名もなく散った兄弟の存在を伝えている。

