犬山城:三度落ちた国宝天守と、日本で唯一「個人が持っていた城」だった理由

犬山城:三度の落城を経験した国宝天守犬山城
この記事のポイント
  • 国宝五城の一つで、木曽川の断崖に建つ現存天守です。
  • 戦国期に三度落城しています。守りが固い城が、三度とも短期で落ちました。
  • 江戸期の城主・成瀬家は「付家老」という、大名とも家臣ともつかない立場でした。
  • 成瀬家が大名と認められたのは、幕末になってからです。
  • つい近年まで、日本で唯一の個人所有の城でした。持ち主は成瀬家の子孫です。

犬山城は、姫路・松本・彦根・松江と並ぶ国宝五城の一つです。木曽川の断崖の上に建ち、背後を川に守られています。ただ、この城には見た目と食い違う経歴があります。戦国期に三度落城しているのです。そして江戸時代の城主・成瀬家は、大名とも家臣ともつかない「付家老」という立場に置かれつづけました。さらにこの天守は、つい近年まで個人の持ち物でした。

目次

木曽川を背にした「後堅固」の城

犬山城の国宝天守を正面から見上げる

犬山城天守。最上階に高欄付きの廻縁がめぐり、その下に唐破風が張り出しています。

城は木曽川に臨む丘の上にあります。背後は断崖で、川がそのまま堀の役目を果たす形です。こうした造りを後堅固といいます。

木曽川側から見た犬山城の城山

木曽川のほとりから見上げた城山。この崖の上に天守が建つ(筆者撮影)

正面から見上げると、最上階に高欄付きの廻縁がめぐり、その下に唐破風が大きく張り出しているのが分かります。下半分は実用的な櫓のような造り、上半分は望楼という組み合わせで、古い形式を残した天守です。

築いたのは織田信康、信長の叔父にあたる人物と伝わります。

三度、落ちている

三度の落城年落とした側経緯永禄八年織田信長叔父の信清を攻めて落とす天正十二年池田恒興小牧・長久手の直前に奇襲で奪う慶長五年東軍関ヶ原の前哨戦で城方が降り、開城木曽川を背にした堅城が、三度とも短期間で落ちている。

図|守りの固い城が、三度とも短い期間で落ちています。

一度目は永禄八年。城主だった織田信清は信長と対立し、攻められて城を失いました。叔父と甥の争いです。信清は甲斐へ逃れたと伝わります。

犬山城の天守と石垣

国宝の天守と、それを支える石垣(筆者撮影)

二度目は天正十二年。小牧・長久手の戦いが始まる直前、池田恒興が奇襲でこの城を奪いました。これが秀吉方の前進拠点になります。

その池田恒興が、このあと長久手で討たれることになります。

池田恒興の「中入り」はなぜ失敗したのか:奇襲は成功したあとが本番だった

三度目は慶長五年。関ヶ原の前哨戦で、城を守っていた石川貞清の側が持ちこたえられず、開城しました。

▽ よく語られる話

木曽川を背にした難攻不落の城。だから天守がいまも残っている。

▼ 史実ではこうです

地形は確かに堅い。ただ三度とも、長い籠城にはなっていません。奇襲、寝返り、そして開城です。

ここから分かるのは、戦国の城の運命を決めるのは地形よりも人だったということです。犬山は尾張と美濃の境にあり、どちらの勢力が強いかで立場が変わる土地でした。攻める側にとっては、ここを押さえれば次の一手が楽になる。だから何度も狙われました。

天守が残ったのは堅かったからではなく、江戸時代を通じて戦場にならなかったからです。

成瀬家 ― 大名なのか、家臣なのか

桜の木越しに見上げる犬山城天守

城山の下から見上げた天守。三層四階の外観で、内部は地下二階を持ちます。

江戸時代に入り、この城には成瀬正成が入りました。以後、成瀬家が明治まで続きます。

ただし成瀬家の立場は少し変わっていました。尾張徳川家の付家老だったのです。

付家老とは、幕府が御三家に付けた家老のことです。御三家という大きな家を、幕府の側から支え、かつ見張る役目でした。

ここが微妙なところで、付家老は独立した大名ではありません。形のうえでは尾張徳川家の家臣、つまり将軍から見れば陪臣にあたります。しかし城を持ち、三万石を超える領地を持っていました。

大名の中身を持ちながら、大名として扱われない。この宙ぶらりんの状態が、二百五十年続きました。

大名になったのは、幕末だった

付家老の家々は、たびたび独立を願い出ています。実質は大名なのだから、大名として認めてほしいという訴えです。

これが認められたのは幕末になってからでした。成瀬家が正式に大名として立ったのは、江戸幕府がほとんど終わろうとしている時期です。

二百五十年待って、手に入れた数年。皮肉な話ですが、身分というものが江戸時代にどれだけ厳格だったかを、これほど示す例もありません。

似た構図は、土佐藩の上士と下士にも見られます。

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天守から、木曽川を見下ろす

犬山城天守の最上階から見下ろす木曽川と対岸の町

最上階からの眺め。眼下が木曽川で、対岸は美濃です。

天守の最上階へ上がると、この城の立地がひと目で分かります。

犬山城の天守から見下ろす木曽川

天守の廻縁から見下ろした木曽川(筆者撮影)

足元がすぐ木曽川です。そして川の向こうが美濃。つまりこの天守は、国境の川を見張るために建っています。

尾張から見れば、ここは北の最前線でした。美濃から見れば、川を渡ればすぐ尾張です。信長が美濃を攻めるときも、秀吉と家康が争ったときも、この城が真っ先に問題になったのは、この景色のためです。

廻縁に出ると、下をのぞきこむような高さになります。手すりが低く、足がすくむという人も少なくありません。

日本で唯一、個人が持っていた城

明治の廃城令で、犬山城の櫓や門は取り壊されました。天守だけが残ります。

そして明治二十四年、濃尾地震が起きました。天守は大きく損壊します。

このとき県は、修復することを条件に、天守を旧城主の成瀬家へ譲りました。直すなら持っていってよい、という形です。

こうして犬山城天守は、成瀬家の所有物になりました。そのまま百年以上、日本でただ一つの「個人が持っている城」でありつづけます。

財団法人へ移管されたのは、ごく近年のことです。それまでは、国宝の天守に個人の名義がついていました。

▽ よく語られる話

成瀬家が城を愛していたから、個人で持ちつづけた。

▼ 史実ではこうです

愛着があったことは確かでしょう。ただ出発点は地震で壊れた建物の修理を引き受ける代わりに譲り受けたという経緯です。つまり最初にあったのは負担でした。

木造建築の維持には、絶えず費用がかかります。国宝の天守を、一つの家が私財で守りつづけたという事実のほうに、この話の重さがあります。

国宝五城のなかでの犬山城

国宝に指定されている天守は五つです。姫路、松本、彦根、松江、そして犬山。

このうち犬山城は、もっとも古い形式を残していると言われてきました。下部が入母屋造りの建物で、その上に望楼をのせる形です。近年は建築年代について議論があり、部分ごとに時期が違うという見方も出ています。

いずれにせよ、層塔型の整った天守が広まる前の姿を伝えていることは変わりません。姫路や松本の完成された美しさとは別の、荒削りな魅力があります。

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犬山城へのアクセス

愛知県犬山市犬山北古券。名鉄犬山遊園駅から歩いて登れます。城下町が整備されており、あわせて歩くと半日ほどかかります。

国宝犬山城の石碑

城への登り口に立つ「国宝 犬山城」の石碑(筆者撮影)

城主・織田信清には蜂須賀正勝が一時仕え、麓の小折には信長の側室を出した生駒家の屋敷がありました。このあたりの人のつながりは川並衆とは何者だったのかで整理しています。

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