筒井城跡:「元の木阿弥」と洞ヶ峠 ― 寺の衆徒から大名になった筒井氏の城

筒井城:興福寺の僧兵を束ねる地位から戦国大名へ 筒井順慶の居城 筒井城
この記事のポイント
  • 筒井氏は興福寺の衆徒、つまり寺に属する立場から戦国大名になった家
  • 筒井城は松永久秀に何度も奪われ、そのたびに取り返された平城
  • 「元の木阿弥」は、この城の当主・筒井順昭の死をめぐる話として伝わる
  • 信長の命で廃城となり、大和の城は郡山城ひとつに集約された

筒井城(奈良県大和郡山市筒井町)は、筒井順慶が生まれ育ち、何度も追い出されては取り返した城である。石垣も天守もない平地の城で、いまは田と住宅のなかに石柱と看板が立つだけになっている。それでも大和という国のかたちを知るには、郡山城よりこちらを先に見たほうが早い。

▽ よく語られる話
筒井順慶は山崎の戦いのとき洞ヶ峠まで出て、光秀と秀吉のどちらが勝つかを眺めていた。日和見の代名詞である。
▼ 史実ではこうです
順慶が洞ヶ峠に出たという確かな同時代の記録はない。峠まで出て相手を待っていたのは光秀のほうだったとする見方が強く、順慶は城に兵を集めて動かなかった。動かなかったのは性格の問題ではない。彼は寺社と国衆の合意の上に立つ立場で、勝手に一方へ加担すれば大和そのものが割れた。
目次

筒井氏は武家ではなく、寺の衆徒だった

大和という国には、戦国期を通じて守護大名がいなかった。国の土地の多くを興福寺と春日社が持ち、寺が事実上の領主だったからである。その興福寺に属し、武力を担った者たちが衆徒と呼ばれた。筒井氏はその衆徒のひとつで、寺の内側から力を伸ばして戦国大名になっていった家である。

この出自は最後まで筒井氏についてまわる。大和で何かを決めるには、寺社と国衆の顔色を見なければならない。のちに豊臣秀長が大和へ入ったときに苦労したのも同じ構造で、筒井氏はその構造の内側にいた側だった。

「元の木阿弥」は、この家の話として伝わる

順慶の父・筒井順昭は、大和をほぼ手中にしたところで若くして病に倒れた。跡取りの順慶はまだ幼い。そこで順昭の死を隠すため、声と姿の似た木阿弥という法師を寝所に置き、当主がまだ生きていることにした—そして数年後に喪を公にすると、木阿弥はもとの身分に戻された。ここから「元の木阿弥」という言葉が生まれた、と語られている。

ただしこの逸話が見えるのは後の世の書物で、同時代の史料で確かめられているわけではない。それでも語り継がれてきたのは、話の芯が本当だったからだろう。幼い当主を抱えた家がいちばん危ないという事実は、このあとの筒井氏がそのまま証明していく。

松永久秀に何度も奪われ、何度も取り返した

順慶が二歳で家督を継いだころ、大和へ攻め入ってきたのが松永久秀である。久秀は三好長慶の重臣として大和に入り、多門山城を築いて拠点とした。筒井城は落ち、順慶は家臣の城へ逃れる。

ここから城の持ち主が何度も入れ替わる。久秀が三好三人衆と対立すると順慶は三人衆と結んで城を取り返し、久秀が信長にいち早く臣従して後ろ盾を得ると、また追い出される。元亀のころ辰市での戦いに勝ってようやく筒井城を回復し、順慶も信長に臣従した。

そして久秀が二度目の謀反に及んだとき、信貴山城を攻める先鋒に立ったのが順慶だった。大和にずっといた家と、外から入って大和を切り取ろうとした男の決着である。

筒井城跡に立つ大きな案内看板と広場

筒井城跡(大和郡山市筒井町)に立つ看板。土塁も石垣も残らず、広場と住宅が広がる。ここが何度も主を替えた城の中心だった

洞ヶ峠で日和見したのか

本能寺の変のあと、順慶は光秀の与力という立場にあった。光秀は当然あてにしたが、順慶は動かない。兵を城へ集めたまま、山崎の決着がつくのを待った。のちにこれが「洞ヶ峠を決め込む」という言い回しになり、日和見の代名詞として順慶の名に貼りついた。

ところが、順慶が洞ヶ峠まで出たという確かな記録はない。峠に出て相手を待っていたのは光秀のほうだったとする見方が強く、順慶は最後まで大和を離れなかったと考えられている。本能寺から山崎までの十一日間は、どの武将も同じ判断を迫られた時間だった。

そして順慶には、勝手に動けない事情があった。大和は寺社と国衆の合意で回っている国で、当主が一方に肩入れすれば国が割れる。彼が守っていたのは自分の身ではなく、大和がひとつにまとまっている状態のほうだった。

城が消えた日 ─ 大和は郡山ひとつになった

順慶は筒井城を広げ続けたが、平地の低い土地で水がつきやすく、拡張には限界があった。信長の後押しを得て郡山城を攻め取ると、そちらへ本拠を移していく。そして信長が大和に一国破城の命を出し、大和に残す城は郡山城ひとつと定められた。筒井城はこのとき廃された。

順慶はその四年後に世を去り、養子の定次は伊賀上野へ移される。入れ替わりに秀長が百万石で郡山へ入った。大和の主は、寺の衆徒から出た家から、天下人の弟へ替わった。

筒井城跡の外周に残る細い水路と草地

筒井城跡のへりを流れる細い水路。堀の名残とされる水の筋が、住宅の擁壁とのあいだにいまも通っている

現地はいま ─ 何が残っているのか

城跡は田と住宅のなかにあり、遺構らしい遺構は地上にほとんど残っていない。「筒井順慶城趾」と刻まれた石柱と、広場に立つ看板が目印になる。とはいえ城の輪郭がまったく消えたわけではない。外周をめぐる細い水路は堀の名残とされ、道の折れ方や区画の形に城の骨組みが読み取れる。平城の跡地が田や宅地になるのはよくあることで、形のほうは土地に残る。

近鉄橿原線の筒井駅から歩いてすぐ。郡山城跡とは同じ大和郡山市内で、電車で数分の距離にある。順慶が捨てた城と、移った先の城を一日で続けて見られる。豊臣兄弟ゆかりの城めぐりに組みこむなら、筒井城を先に見るほうが話の順番に合う。

【筒井城・場所・アクセス】
〒639-1123 奈良県大和郡山市筒井町

よくある疑問

Q. 筒井城と郡山城はどう違いますか。
どちらも大和郡山市内の平城ですが、筒井城は筒井氏が代々拠った城、郡山城は順慶が移った先で、のちに秀長が百万石の居城として大きく改修した城です。

Q. 「元の木阿弥」は本当にあった話ですか。
後の世の書物に見える逸話で、同時代の史料では確かめられていません。ただし順昭が若くして没し、幼い順慶が跡を継いだこと自体は事実です。

Q. 順慶は結局どちら側だったのですか。
最終的に秀吉方に立ち、所領を安堵されています。動かなかったことが、結果として大和を割らずに済ませました。

あわせて読みたい:秀長はなぜ多聞山城や信貴山城を本拠にしなかったのか

まとめ

筒井城は、寺の衆徒から身を起こした家が拠った平城である。松永久秀と何度も奪い合い、そのたびに取り返し、最後は信長の命で自ら捨てられた。城が消えたあと、大和の主は郡山へ移り、やがて秀長がそこへ入る。いま残るのは石柱と看板と、堀だった細い水路だけだが、大和という国がどういう場所だったかは、この静かな城跡のほうがよく語っている。

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