※この記事の絵は、当時の様子を描いたイメージ(イラスト)です。
- 九州をほぼ手中にしていた島津は、秀吉が九州に上陸してからわずか40日ほどで降伏しました。天正15年(1587)3月28日に秀吉が小倉に着き、5月8日に島津義久が頭を丸めて降っています
- 兵力は豊臣方約20万に対し、島津方は数万。秀吉は前年から30万人の1年分の兵糧を用意していました
- 豊臣方は、秀吉が肥後から薩摩へ、秀長が豊後から日向へと、二方面から同時に攻めこみました。島津は兵を二つに分けざるを得ませんでした
- 島津の支配は日が浅く、岩石城が1日で落ちると、九州の国衆は雪崩をうって豊臣方に寝返りました
- 唯一の決戦・根白坂の戦いで島津は大敗し、義久は本国が無傷のうちに降伏して家を残す道を選びました
戸次川の戦いで豊臣の先遣隊を打ち破り、九州最強とうたわれた島津家。その島津が、秀吉本人が九州に来るとたちまち押し返され、2か月もたたずに降伏しました。島津はなぜ、こんなにあっさり敗れたのでしょうか。この記事では、兵力の差、両軍の作戦、そして勝負を分けた合戦の場面をたどりながら、その理由を考えます。九州攻め全体の流れは四国平定・九州平定をわかりやすく解説で、戦いの結末と国分けは九州攻めはどう終わったのかで紹介しています。

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九州攻めの流れを年表で見る
| 時期 | できごと |
|---|---|
| 天正14年(1586)7月 | 島津が筑前の岩屋城を攻める。高橋紹運ら763人が14日間戦って全滅 |
| 天正14年10月〜 | 島津義弘・家久が豊後へ攻めこむ |
| 天正14年12月12日 | 戸次川の戦い。島津家久が仙石秀久・長宗我部元親らの豊臣先遣隊を破る |
| 天正14年12月1日 | 秀吉、30万人の1年分の兵糧を集めるよう命じる |
| 天正15年(1587)3月1日 | 秀吉が大坂城を出陣 |
| 3月18日〜20日ごろ | 島津軍が豊後から撤退をはじめる |
| 3月28日 | 秀吉が豊前の小倉に着く |
| 4月1日 | 岩石城が1日で落ちる |
| 4月3日 | 秋月種実が降伏 |
| 4月6日 | 秀長の軍が日向の高城を囲む |
| 4月17日 | 根白坂の戦い。島津の救援軍が大敗 |
| 4月27日 | 秀吉の本隊が薩摩に入る |
| 5月8日 | 島津義久が川内の泰平寺で降伏 |
| 5月22日 | 島津義弘が降伏 |
兵力をくらべる:約20万対数万

豊臣方は、秀吉と秀長の両軍を合わせて約20万といわれます。対する島津は、岩屋城攻めに3万余り、豊後攻めでは義弘の軍が3万余り、家久の軍が1万余りと伝わり、多く見積もっても5万ほどでした。そのうえ、島津の兵の多くは、ここ数年で従えたばかりの九州各地の国衆です。
差は兵の数だけではありません。秀吉は前年の12月、小西隆佐ら4人の奉行に、30万人の1年分の米と、馬2万頭分の飼料を集めるよう命じました。兵糧は尼崎に集められ、船で九州の入口・赤間関(いまの下関)へ運ばれます。この兵糧の手配を任されたのが、石田三成・大谷吉継・長束正家でした。20万の大軍が、食べるものに困らず九州の奥まで進めたのは、この準備があったからです。
両軍の作戦

豊臣方:二方面から同時に攻めこむ
豊臣方は軍を二つに分けました。秀吉の本隊は筑前・筑後から肥後を南へ下り、薩摩をめざす西回り。秀長の軍は豊後から日向へ進む東回りです。秀長の軍には、毛利輝元・小早川隆景・吉川元長・黒田孝高(官兵衛)・宮部継潤・藤堂高虎らが加わりました。島津の本国を東と西からはさみうちにする作戦です。
島津方:秀吉が来る前に九州を固め、来たら一か所で叩く
島津のねらいは、秀吉本人が九州に来る前に大友家を倒し、九州を固めてしまうことでした。そのため天正14年のうちに筑前と豊後へ兵を進めます。戸次川では、得意の「釣り野伏せ」で豊臣の先遣隊を大敗させました(戸次川の戦いとは)。
しかし秀吉の大軍が迫ると、島津は豊後から引き揚げ、本国の守りに切りかえます。日向の高城を囲んだ秀長の軍に、全力の救援軍をぶつけて打ち破り、豊臣方の勢いを止める。それが島津の最後の作戦でした。
島津があっさり敗れた5つの理由
理由①:兵力と物量の差が大きすぎた
約20万対数万。さらに30万人分の兵糧。島津は一つひとつの戦いでは強くても、この差を戦場の工夫だけで埋めることはできませんでした。
理由②:豊後に深入りし、時間を使いすぎた
島津は秀吉が来る前に九州を固めるつもりでしたが、まず筑前の岩屋城で高橋紹運に14日間足止めされ、大きな損害を出しました(高橋紹運はなぜ763人で玉砕したのか)。立花宗茂の立花城も落とせません。戸次川で勝って豊後の府内を押さえても、大友家を滅ぼしきれないまま、秀吉の本隊が来る時を迎えてしまいました。主力が豊後に出払っていたため、引き揚げにも時間がかかりました。
理由③:国衆が雪崩をうって寝返った
島津が九州の大半を従えたのは、ここ数年のことでした。九州各地の国衆は、強い者に従っていたにすぎません。秀吉の大軍が来て、岩石城がたった1日で落ちると、国衆は次々に豊臣方へ降りました。島津が頼りにしていた味方が、そのまま敵に回ったのです。
理由④:二方面から攻められ、兵を分けざるを得なかった
西からは秀吉が肥後を下り、東からは秀長が日向に入ります。島津は本国の守りと日向の救援に兵を分けるしかありませんでした。数で劣る側が兵を分ければ、どちらでも勝ち目は薄くなります。
理由⑤:唯一の決戦・根白坂で大敗した
島津は義久・義弘・家久の三兄弟がそろって約2万の救援軍を出し、高城を囲む秀長の軍に挑みました。しかし秀長は力攻めをせず、救援の通り道に砦を築いて待ちかまえていました。島津は砦を破れず大敗し、主だった武将を失います(根白坂の戦いで秀長は何をしたのか)。これで、島津には押し返す力が残らなくなりました。
勝負を分けた合戦秘話
天正15年4月1日、秀吉の本隊はまず、秋月種実の支城・豊前の岩石城(いまの福岡県添田町)を攻めました。山の上の堅い城で、城兵は約3000。攻め手の先鋒は、蒲生氏郷と前田利長です。激しい戦いの末、城はわずか1日で落ち、城兵約400が討死したと伝わります。九州上陸後の最初の戦いで力を見せつけたこの勝利が、九州の国衆の心を一気に豊臣方へ傾けました。
岩石城の落城を知った秋月種実は、本城の古処山城へ引きこもりました。このとき秀吉は、秋月方が壊していった益富城を、一夜のうちに直したように見せかけたと伝わります。城壁に白い紙を張って、白壁ができたかのように見せたという話です。豊臣方の力に肝をつぶした種実は、4月3日、頭を丸めて降伏しました。この「一夜城」の話は後世の伝えで、どこまで本当かはわかりませんが、秋月がたった数日で降ったことは確かです(古処山城(秋月城))。
降伏した秋月種実は、秀吉に名物の茶入「楢柴肩衝(ならしばかたつき)」と名刀、そして娘を差し出しました。楢柴肩衝は天下三肩衝の一つに数えられる名物です。茶の湯を政治に使った秀吉にとって、これほどの名物を差し出させたことは、九州の大名を従えた証でもありました(秀吉はなぜ大茶会を開いたのか)。
4月17日の夜、島津の救援軍は根白坂の砦に攻めかかりました。砦を守るのは宮部継潤の約1万。空堀と柵で固めた砦を島津は破れず、そこへ藤堂高虎・黒田孝高・小早川隆景らの援軍が駆けつけます。島津は大敗し、歳久の養子・島津忠隣が討死しました。釣り野伏せで敵を誘い出す島津の戦い方は、動かずに守る砦の前では生かせなかったのです。
島津の四兄弟のうち、豊臣との和平を説いていたのは歳久だったと伝わります。ところが根白坂で養子の忠隣を失った歳久は、兄の義久が降伏したあとも、義弘とともに抵抗を続けました。義弘も義久の説得を受けて5月22日に降伏し、ようやく戦いは終わります。島津家の中でも、降伏を受け入れるまでには葛藤がありました。
島津は戦国最強といわれたのに、秀吉の前ではあっけなく負けた。島津は案外弱かったのではないか。
島津は戸次川で豊臣の先遣隊を破り、根白坂でも三兄弟がそろって決戦を挑んでいます。弱かったのではなく、兵力・兵糧・国衆の数という戦の「規模」で負けたのです。そして義久は、本国の薩摩・大隅が無傷のうちに降伏することで、島津家を守りました。
あっさりの降伏が、島津家を残した
島津義久は5月8日、川内の泰平寺で頭を丸めて秀吉の前に出ました。秀吉は義久を許し、島津家には薩摩・大隅と日向の一部が残されます。最後まで本国で戦っていれば、島津家は滅ぼされていたかもしれません。あっさり敗れたように見える降伏は、家を守るための判断でもありました。その島津は13年後、関ヶ原で敵中突破を見せ、江戸時代を通じて薩摩の大名として続いていきます(九州攻めはどう終わったのか)。
よくある疑問
Q. 九州攻めの兵力はどれくらいでしたか?
A. 豊臣方は秀吉と秀長の両軍で約20万、島津方は数万(多く見て5万ほど)といわれます。いずれも諸説あります。
Q. 秀吉が九州に来てから島津が降伏するまで、どれくらいかかりましたか?
A. 秀吉が小倉に着いたのが3月28日、義久の降伏が5月8日で、40日ほどです。
Q. 九州攻めの勝負どころはどこでしたか?
A. 北では1日で落ちた岩石城、南では島津の救援軍が大敗した根白坂の戦いです。
Q. 島津は九州攻めで一度も勝てなかったのですか?
A. いいえ。前年12月の戸次川の戦いでは、豊臣の先遣隊を大敗させています。
九州攻めでの秀長の動きだけをたどった記事は、秀長の九州攻めをたどるです。従った武将、藤堂高虎、出陣前の病までまとめています。
参考:『国史大辞典』「九州征伐」、『日本戦史 九州役』、「【九州三国志】岩石城、一日で落つ!古処山城の降伏と島津の退潮」(Yahoo!ニュース エキスパート)ほか
