臣従した家康は何を得たのか|正三位権中納言、駿府城への移転、真田・小笠原の与力化、そして「関東のこと」

駿府城/アクセス・場所・地図 室町幕府より今川家が拝領し戦国時代以降は今川義元・徳川家が領した駿府城
この記事のポイント
  • 天正14年(1586)10月27日に秀吉に臣従した家康は、その直後の11月、正三位に叙され、権中納言に任じられました。秀長と並ぶ地位です
  • 同じ年の12月、家康は本拠を浜松から駿府に移しました。秀吉との戦いに備える必要がなくなり、東へ目を向けたのです
  • 翌天正15年には、秀吉の命で真田昌幸・小笠原貞慶・木曽義昌が家康の与力(指揮下の大名)となりました。石川数正とともに徳川を離れた小笠原貞慶も、ふたたび家康の下に入ったことになります
  • 秀吉は家康に「関東のこと」を任せました。北条家を秀吉に従わせる仲立ちです。家康は臣従と引きかえに、豊臣政権のなかで東国をまとめる立場を手に入れたのです

『豊臣兄弟!』第41回のタイトルは「家康の野望」です。秀吉に頭を下げた家康は、その見返りに何を得たのでしょうか。この記事では、臣従のあとに家康が手にしたもの、官位、新しい本拠、与力の大名たち、そして東国での役目を、日付を追って紹介します。家康が臣従を決めるまでの流れは家康はなぜ秀吉に臣従したのかでくわしく書いています。

駿府城跡
家康が臣従の直後に本拠を移した駿府城(駿府城跡)
目次

① 官位 ─ 正三位・権中納言

家康は臣従の直後、天正14年11月に正三位に叙され、権中納言に任じられました。このころ秀長も同じ正三位・中納言の地位にあり、家康は秀吉の弟と肩を並べる扱いを受けたことになります。家康に従って上洛した榊原康政らの家臣にも、官位が与えられました(家康の上洛に従った家臣、岡崎に残った家臣)。

官位は、豊臣政権のなかでの序列を示すものでした。秀吉は、天皇から与えられる官位の仕組みを使って大名たちを序列づけていきます。家康を高い官位につけることは、家康を政権の重臣として迎え入れたことを天下に示すものでした(関白・太政大臣・左大臣・右大臣・内大臣の序列)。

② 新しい本拠 ─ 浜松から駿府へ

天正14年12月、家康は本拠を遠江の浜松城から駿河の駿府に移しました。浜松は、西の織田・豊臣に備えるための城でした。秀吉に臣従して西の脅威がなくなった家康は、領国の中心にあたる駿府へ移り、甲斐・信濃を含む五か国をまとめる体制を整えます。駿府は、家康が少年時代を今川家の人質として過ごした町でもありました(駿府城跡)。

天正13年ごろの家康の領国と主な城の模式図
臣従前後の家康の領国(模式図)。浜松から、領国の中心に近い駿府へ本拠を移しました

③ 与力の大名 ─ 真田・小笠原・木曽

翌天正15年(1587)、秀吉の命で、信濃の真田昌幸・小笠原貞慶・木曽義昌の三人が、家康の与力とされました。与力とは、ここでは家康の指揮下に入る大名のことです。3月には、昌幸が貞慶とともに駿府を訪れ、家康に挨拶しています。

真田昌幸は、つい2年前の上田合戦で徳川軍を破った相手です(第一次・第二次上田合戦)。小笠原貞慶は、石川数正とともに徳川を離れて秀吉についた大名でした(小笠原貞慶とは)。家康から離れていった信濃の大名たちが、秀吉の命令によって、ふたたび家康の指揮下に戻ってきたのです。

上田城
真田昌幸の上田城。昌幸は天正15年、家康の与力とされました(上田城)

④ 東国での役目 ─ 「関東のこと」を任される

秀吉は家康に、関東のことを任せました。具体的には、北条家を上洛させ、秀吉に従わせる仲立ちです。家康の娘・督姫は北条氏直に嫁いでいて、家康は北条家と深い縁がありました(家康と北条氏政の会見(天正14年))。

秀吉が大名どうしの私的な戦を止め、従わない者を討つという方針のもとで、家康は東国の窓口になりました。九州で秀長が島津を降した翌年から、東では家康が北条と向き合うことになります(九州停戦令(惣無事令)とは)。

得たもの 時期 中身
官位 天正14年11月 正三位・権中納言。秀長と並ぶ地位
新しい本拠 天正14年12月 浜松から駿府へ移る
与力の大名 天正15年 真田昌幸・小笠原貞慶・木曽義昌が家康の指揮下に
東国での役目 臣従後 北条家を秀吉に従わせる仲立ちを任される

家康の「野望」はどこにあったのか

臣従によって、家康は「秀吉と対等な同盟者」という立場を失いました。そのかわりに、豊臣政権のなかで、秀長と並ぶ地位と、東国をまとめる役目を手に入れます。戦わずに五か国を守り、さらに信濃の大名たちを指揮下に収めたのですから、家康にとって損ばかりの臣従ではありませんでした。

そして天正18年(1590)、小田原攻めで北条家が滅ぶと、家康は関東へ移り、江戸を本拠とします。臣従のときに任された「関東のこと」は、やがて家康自身の領国になっていきました。ドラマの「家康の野望」が、この先の江戸までを見すえたものなのか、注目したいところです。

▷ 大河ドラマではどう描かれるか(放送前の予想)
『豊臣兄弟!』第41回「家康の野望」は10月25日(日)放送予定です。伝えられているあらすじでは、家康が臣従の形をとりながら、その先に何を見ていたのかが描かれる見込みです。放送後にこの枠を更新します。

よくある質問

Q. 家康は臣従後、どんな官位を得ましたか?
A. 天正14年(1586)11月に正三位に叙され、権中納言に任じられました。

Q. 家康が駿府に移ったのはいつですか?
A. 天正14年(1586)12月です。浜松から駿府に本拠を移しました。

Q. 真田昌幸はなぜ家康の与力になったのですか?
A. 天正15年(1587)、秀吉の命で、真田昌幸・小笠原貞慶・木曽義昌が家康の与力とされました。昌幸は3月に駿府を訪れて家康に挨拶しています。

Q. 秀吉は家康に何を任せたのですか?
A. 関東のこと、具体的には北条家を上洛させ、秀吉に従わせる仲立ちを任せました。

まとめ

秀吉に臣従した家康は、正三位・権中納言の官位、駿府という新しい本拠、真田・小笠原・木曽という与力の大名、そして東国をまとめる役目を手に入れました。頭を下げたことで、家康は戦わずに領国を守り、豊臣政権のなかで秀長と並ぶ重臣になったのです。その先には、小田原攻めのあとの関東入りと江戸が待っていました。

参考:『家忠日記』/『徳川実紀』/柴裕之『徳川家康』平凡社/平山優『真田昌幸』吉川弘文館

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