- 於次秀勝は信長の四男(五男説もあり)で秀吉の養子となり、天正13年(1585)12月10日に丹波亀山城で病のため18歳で亡くなりました。織田の血を引く跡継ぎがいなくなったことが、のちに茶々の子に期待がかかる下地になります
- 養子に迎えられたのは、長浜で実子とされる石松丸が天正4年(1576)に亡くなったあとです。秀吉には主家と身内になる縁組、信長には出世の早い家臣を血筋でつなぎとめる縁組で、双方に都合のよいものでした
- 本能寺の変のあとは山崎の戦いに加わり、清須会議のあと明智光秀の本拠だった丹波亀山城に入りました。同じ年の10月に大徳寺で行われた信長の葬儀では喪主をつとめたと伝わり、羽柴家の「看板」の役目を負いました
- 秀吉の子として「秀勝」を名のった人物は、長浜の石松丸、於次秀勝、秀吉の姉・ともの次男の小吉秀勝の三人です。江と結婚し、文禄元年(1592)に巨済島で亡くなったのは小吉秀勝で、於次秀勝とは別人です
『豊臣兄弟!』第39回「茶々の本心」では、秀長が秀吉に、跡継ぎとなる実子をもうけるために新しく妻を迎えるよう勧め、その相手は「織田の血を引く茶々しかいない」と言われます。なぜ「織田の血」なのか ─ その答えのひとつが、信長の四男で秀吉の養子だった羽柴秀勝(於次秀勝)です。ドラマでは柊木陽太さんが演じ、信長の葬儀などの場面に登場しました。この記事では、於次秀勝がなぜ秀吉の養子になったのか、どんな役目を負っていたのか、そして天正13年(1585)の暮れに18歳で亡くなったことが豊臣家にとって何を意味したのかを、史実からたどります。
放送された第39回の内容と史実のちがいは、豊臣兄弟!第39回「茶々の本心」の史実 ─ 茶々の決断と石川数正の出奔でまとめています。

大坂城で、秀吉の養子で羽柴家の嫡男とされる秀勝が重い病に倒れ、「もう危ないかもしれない」と伝えられました。秀吉は「つくづく子に恵まれぬ定め」と嘆き、これをきっかけに秀長が「織田の血を引く茶々しかいない」と、秀吉に新しく妻を迎えるよう迫ります。史実の於次秀勝はこのあと、天正13年(1585)12月10日に丹波亀山城で18歳で亡くなりました。
羽柴秀勝(於次秀勝)とはどんな人物か
於次秀勝は永禄11年(1568)、織田信長の子として生まれました。信長の男子のなかでは四番目とされることが多いのですが、五男とする説もあり、生母もはっきりしていません。幼名の「於次(おつぎ)」は「次の者」という意味あいで、のちの記録では同じ名の秀勝たちと区別するために「於次秀勝」と呼ばれています。信長の子でありながら織田でなく「羽柴」を名のったのは、秀吉の養子になったからで、名も秀吉の亡くした子と同じ「秀勝」でした。
なぜ秀吉は信長の四男を養子にしたのか
秀吉が長浜城主だったころ、実子とされる石松丸(羽柴秀勝)が天正4年(1576)10月に幼くして亡くなっています。於次秀勝が養子として迎えられたのはそのあとで、時期ははっきりしませんが、近江で秀吉と連名の知行宛行状を出したり、長浜八幡宮の奉加帳に名を連ねたりしていることが知られています。亡くした子と同じ「秀勝」の名を与えたことにも、秀吉の思いがうかがえます。
ただ、これは秀吉の私情だけで決まった縁組ではありません。主君の子を養子に迎えれば、羽柴家は織田家の「身内」になり、秀吉が近江や播磨で行う支配にも、信長の子がそばにいるという後ろ盾がつきます。信長の側から見れば、出世の早い家臣を自分の血筋でつなぎとめておく手でもありました。子のない秀吉と、子の多い信長、双方に都合のよい縁組だったといえるでしょう。
本能寺の変のあと ─ 山崎の戦い、丹波亀山城、信長の葬儀
天正10年(1582)、於次秀勝は秀吉にしたがって中国攻めに加わっていましたが、6月に本能寺の変が起こると秀吉とともに引き返し、山崎の戦いにも加わりました。清須会議のあと、明智光秀の本拠だった丹波の亀山城(京都府亀岡市)に入り、9月にはその周辺で家臣に知行を与えています。若いながらすでに一国の領主として振る舞っていたわけです。
同じ年の10月、秀吉は京都の大徳寺で信長の葬儀を大々的に行いますが、このとき喪主をつとめたのが於次秀勝だったと伝わります。信長の後継として清須会議で立てられたのは孫の三法師で、次男の信雄や三男の信孝はこの葬儀に加わっていませんでした。そのなかで、信長の実子であり秀吉の養子でもある於次秀勝を前に立てることで、秀吉は「信長の弔いをしているのは自分の家だ」と示すことができたのです。秀勝は秀吉にとって、織田家の正統と自分をつなぐ、いわば看板の役目を負っていたといえます。

賤ヶ岳・小牧長久手と、毛利家との婚礼
その後も於次秀勝は、天正11年(1583)の賤ヶ岳の戦い、天正12年(1584)の小牧・長久手の戦いに丹波の軍勢を率いて出陣し、美濃の寺社に制札を出すなど、信長の旧領を治める側の中心にいました。小牧・長久手の戦いが和睦で終わった翌月の天正12年12月には、毛利輝元の養女と大坂城で婚礼をあげています。前の年まで敵だった中国の大大名・毛利家と縁を結ぶ役まで任されたことからも、羽柴家の跡取りとして期待されていたことがわかります。
天正13年12月、18歳の死 ─ 「織田の血」の跡継ぎが消えた
ところが天正13年(1585)12月10日、於次秀勝は丹波亀山城で病のため亡くなりました。18歳でした。この年の秀吉は、7月に関白となり、長宗我部の降伏、佐々成政の降伏と勢いに乗っていましたが、11月13日には徳川の重臣・石川数正が秀吉のもとへ出奔し、11月29日には天正地震が近畿から東海を襲います。於次秀勝の死は、そうした目まぐるしい出来事のさなかのことでした。
秀吉のまわりには、このあとも姉・ともの子の秀次や小吉秀勝、宇喜多秀家、家康の子の秀康(於義丸)など、養子や養子同然の若者が何人もいました。けれども、信長の血を引く者はもういません。主家である織田家の血を自分の家に取りこむという意味で、於次秀勝の代わりになる者はいなかったのです。のちに秀吉が浅井長政とお市の方の娘、つまり信長の姪にあたる茶々を側室に迎え、その子に跡を継がせようとしたことを考えると、於次秀勝の死は豊臣家の後継ぎの考え方を大きく変えた出来事だったといえます。
なお、茶々が秀吉のもとにいたことが史料ではっきり見えるのは天正14年(1586)の秋ごろ、側室になったのは天正16年ごろとされています。ドラマ第39回で秀長が茶々を勧める場面は、時期を少し前にずらしながら、この「織田の血」の問題をひとつの場面にまとめた描き方と見ることができます。
三人の「羽柴秀勝」 ─ 石松丸・於次・小吉
秀吉の子として「秀勝」を名のった人物は三人います。一人目は長浜時代の石松丸で、天正4年に亡くなり、長浜の妙法寺に「本光院朝覚居士」の位牌が残ります。秀吉の実子とする説と、養子とする説があります。二人目がこの記事の於次秀勝です。三人目は秀吉の姉・ともの次男で、秀次の弟にあたる小吉秀勝で、於次秀勝の死後にその名と丹波亀山を受けついだと考えられています。ただし、小吉秀勝の署名がある文書が天正13年9月にも見られることから、二人の秀勝が数か月のあいだ同時にいたのではないかという指摘もあります。小吉秀勝はのちに茶々の妹・江と結婚し、文禄元年(1592)、朝鮮出兵のさなかに巨済島で亡くなりました。三人とも若くして世を去ったことになります。
秀長は本当に秀吉に茶々を勧めたのか:『豊臣兄弟!』第39回の予告と史実
於次秀勝を失った秀吉に「織田の血を引く茶々を」と勧めたのは、本当に秀長だったのでしょうか。史料に残る秀長と茶々の接点をたどります。
『豊臣兄弟!』での於次秀勝
ドラマでは柊木陽太さんが於次秀勝を演じ、信長の葬儀の場面などで姿を見せました。小牧・長久手の回は秀次(三好信吉)の動きが中心で、秀勝の出番は多くありませんでしたが、第39回で語られる「織田の血を引く跡継ぎ」の話は、画面に出なくなったこの若者の存在と深くつながっています。放送でその死や名前に触れる場面があれば、この記事にも追記します。
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於次秀勝が城主をつとめ、18歳で亡くなった丹波亀山城をめぐる日帰りコース
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よくある疑問
Q. 羽柴秀勝(於次秀勝)は信長の何番目の子ですか?
A. 四男とされることが多いですが、五男とする説もあります。永禄11年(1568)の生まれで、幼名は於次です。
Q. なぜ信長の子なのに「羽柴」を名のったのですか?
A. 羽柴秀吉の養子になったからです。秀吉にとっては主家と身内になる縁組で、信長にとっては有力な家臣を血筋でつなぎとめる縁組でした。
Q. 於次秀勝はいつ、どこで亡くなりましたか?
A. 天正13年(1585)12月10日、居城の丹波亀山城(京都府亀岡市)で病のため亡くなりました。18歳でした。
Q. 江と結婚した羽柴秀勝と同じ人ですか?
A. 別人です。江と結婚したのは秀吉の姉・ともの次男の小吉秀勝で、於次秀勝の死後にその名と丹波亀山を受けついだと考えられています。
Q. 『豊臣兄弟!』で於次秀勝を演じているのは誰ですか?
A. 柊木陽太さんです。
まとめ
羽柴秀勝(於次秀勝)は、信長の四男として生まれ、子のいない秀吉の養子となって、信長の葬儀では喪主をつとめ、丹波亀山城主として賤ヶ岳や小牧・長久手にも出陣しました。毛利家との婚礼まで任された羽柴家の跡取りでしたが、天正13年(1585)12月、18歳で病に倒れます。秀吉のまわりに若い養子はほかにもいましたが、織田の血を引く者は彼しかいませんでした。『豊臣兄弟!』第39回で「茶々しかいない」と言われる理由は、この若者の死を重ねて見ると、ぐっとわかりやすくなるはずです。
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