- 天正14年(1586)10月、秀吉は家康を上洛させるため、実の母・大政所(なか)を人質として三河の岡崎へ送りました
- 岡崎で大政所の警固にあたった本多作左衛門重次(鬼作左)は、宿所のまわりに薪を積み上げ、大坂へ向かった家康に万一のことがあれば火をかける構えを見せたと伝わります
- 家康は無事に大坂城で秀吉に臣従して戻り、大政所も大坂へ帰りました。しかし岡崎での扱いを知った秀吉は作左に強い怒りを抱いたといわれます
- 作左はその後出世するどころか、家康の関東移封のあと秀吉の意向で上総に蟄居させられ、表舞台から遠ざけられました。家は子の成重が継ぎ、越前丸岡の大名になります
「天下人の母を焼き殺すつもりだったのか」 ─ 本多作左衛門重次の「薪」の逸話は、徳川家臣団の気骨を語る話としてよく知られています。『豊臣兄弟!』では、第40回であさひが家康に嫁ぎ、その先には大政所の岡崎下向が控えています。この記事では、作左がなぜ薪を積んだのか、その背景と意図、結果どうなったのか、そして作左のその後を、史料と逸話を分けながら見ていきます。作左の生涯全体は本多作左衛門重次とはで紹介しています。

背景 ─ 妹を嫁がせても動かない家康
天正13年(1585)の暮れ、天正地震で家康攻めをあきらめた秀吉は、武力ではなく縁組で家康を従わせる道を選びました。翌天正14年5月、秀吉は妹の旭姫を夫と離縁させてまで、家康の正室として浜松に嫁がせます(旭姫(朝日姫)の生涯)。
ところが家康は、妹を迎えてもなかなか上洛しませんでした。上洛して大坂城で秀吉に頭を下げれば、徳川家は豊臣の家臣になります。それに、敵地の大坂に出向いた家康が、そのまま討たれたり捕らえられたりしない保証はどこにもありません。徳川の家臣団には、上洛に反対する声も強かったと考えられます。
そこで秀吉は、さらに大きな手を打ちます。母の大政所を、旭姫を見舞うという名目で岡崎へ送ったのです。天下人が実の母を人質に差し出す ─ 前代未聞の申し出でした(旭姫と大政所 ─ 秀吉はなぜ妹と母を差し出したのか)。
| 時期(天正14年) | できごと |
|---|---|
| 5月 | 旭姫が浜松で家康に嫁ぐ |
| 10月中旬 | 大政所が三河の岡崎に到着。旭姫と再会する |
| 10月下旬 | 家康が大坂へ向かう。作左らが岡崎で大政所を警固 |
| 10月27日 | 家康が大坂城で秀吉に臣従の礼をとる |
| 11月 | 家康が三河に戻り、大政所は大坂へ帰る |
薪の逸話 ─ 宿所を囲んだ柴と薪
大政所が岡崎に着くと、警固を任された本多作左衛門重次は、大政所の宿所のまわりに柴や薪を積み上げさせたと伝わります。もし大坂に向かった家康の身に何かあれば、すぐに火をかけて大政所もろとも焼き払う ─ そういう構えを、隠すことなく見せたのです。
大政所の世話にあたった侍女たちは、日に日に積み上がる薪を見て震え上がったといいます。大政所自身も、自分が「人質」であることを、目の前の薪によって思い知らされたことでしょう。

作左の意図 ─ なぜ薪を積んだのか
ここからは筆者の見方です。作左が薪を積んだ理由は、少なくとも三つ考えられます。
- 主君の身の安全を担保するため:大坂の秀吉に「家康に手を出せば、母の命はない」と伝わるようにすることで、家康の身を守る。人質は、使う構えを見せてはじめて意味を持つ
- 家臣団の覚悟を示すため:上洛に反対する声が強かった家中に対して、「殿の身は我らが守る」という姿勢を見せ、不満をまとめる役目も果たした
- 天下人に頭を下げない三河武士の意地:「鬼作左」と呼ばれた一徹な作左にとって、相手が天下人の母であろうと、主君の命と引き換えにできるものはなかった
作左は、家康の祖父の代から松平家に仕え、三河の奉行として「鬼作左」と恐れられた人物でした。石川数正が出奔したあとは、数正に代わって岡崎城を預かったともいわれます(石川数正が去っても、家康はなぜ秀吉と戦おうとしたのか)。数正の裏切りを目の当たりにした作左にとって、主君を守ることへの思いは、いっそう強くなっていたはずです。
もう一人の警固役・井伊直政の対応
このとき大政所の警固には、若き井伊直政も加わっていたと伝わります。作左が薪を積んで威圧したのに対し、直政は大政所を丁重にもてなし、大政所も直政を気に入ったという話が残っています。家康が戻ったあと、大坂へ帰る大政所を送り届けたのも直政だったとされます。
「鬼」の作左と、礼を尽くした直政。同じ人質を前にした二人の対照的な姿は、のちの二人の運命にもつながっていきます。直政は秀吉にも気に入られ、のちに徳川家臣で最大の十二万石を与えられました(井伊直政はなぜ「赤鬼」と呼ばれたのか)。

結果どうなったのか ─ 家康は無事、秀吉は激怒
結果から言えば、作左の薪が使われることはありませんでした。家康は10月27日、大坂城で秀吉に臣従の礼をとり、大坂では秀長の屋敷に泊まって、無事に三河へ戻ります(家康はなぜ秀吉に臣従したのか)。大政所も大坂へ帰りました。
ところが、岡崎での扱いは大政所の口から秀吉の耳に入ります。母を薪で囲まれたことを知った秀吉は、作左に強い怒りを抱いたといわれます。天下人となった秀吉にとって、自分の母を焼き殺そうとした家臣を許すことはできなかったのでしょう。秀吉はその後、家康に作左の処分を求めたとも伝わります。
作左のその後 ─ 出世ではなく蟄居へ
主君を命がけで守ろうとした作左でしたが、その忠義は出世にはつながりませんでした。天正18年(1590)、小田原攻めのあと家康が関東に移ると、作左は秀吉の意向によって上総の古井戸(千葉県)に移され、わずかな領地で蟄居の身となったといわれます。三河以来の重臣でありながら、関東での徳川家の新しい体制の中に、作左の席は用意されなかったのです。
家康も、天下人となった秀吉の意向には逆らえませんでした。作左は晩年を下総の井野(茨城県)などで過ごし、慶長元年(1596)、68歳で亡くなりました。秀吉が亡くなる2年前のことです。
| 本多作左衛門重次 | 井伊直政 | |
|---|---|---|
| 大政所への対応 | 宿所のまわりに薪を積んで威圧 | 丁重にもてなし、大坂まで送り届けた |
| 秀吉の評価 | 怒りを買った | 気に入られた |
| その後 | 上総に蟄居。晩年は表舞台から遠ざかる | 上野箕輪十二万石、のち彦根藩の祖に |
子の成重 ─ 「お仙」が大名に
作左の家を継いだのは、あの「一筆啓上 火の用心 お仙泣かすな 馬肥やせ」の手紙に出てくる息子、お仙こと仙千代、のちの本多成重でした。成重は家康の次男・結城秀康に仕え、越前松平家の重臣となります(結城秀康とは)。やがて越前丸岡四万石の大名として独立し、丸岡城の城主となりました(丸岡城)。
父の作左は秀吉の怒りを買って不遇の晩年を送りましたが、父が「泣かすな」と気づかった息子は、大名として家を立てたのです。丸岡城には、いまも「一筆啓上」の手紙を刻んだ碑が立ち、町では「日本一短い手紙」のコンクールが開かれています。

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よくある質問
Q. 大政所の宿所に薪を積んだのは誰ですか?
A. 家康の家臣・本多作左衛門重次(鬼作左)と伝わります。
Q. なぜ薪を積んだのですか?
A. 大坂へ上った家康に万一のことがあれば、火をかけて大政所を焼き殺す構えを見せるためだったとされます。人質としての大政所の意味を、目に見える形で示したものでした。
Q. 秀吉は怒ったのですか?
A. 大政所から岡崎での扱いを聞いた秀吉は、作左に強い怒りを抱いたといわれます。
Q. 本多作左衛門はその後どうなりましたか?
A. 家康の関東移封のあと、秀吉の意向で上総に蟄居させられ、慶長元年(1596)に68歳で亡くなりました。子の成重は越前丸岡の大名となりました。
Q. 薪の逸話は史実ですか?
A. 江戸時代の記録に見える逸話で、どこまで事実かははっきりしません。
まとめ
本多作左衛門重次が大政所の宿所に薪を積んだのは、敵地に向かう主君・家康の身を守るため、人質の意味を目に見える形で示したものでした。家康は無事に戻り、薪が使われることはありませんでしたが、それを知った秀吉の怒りを買った作左は、出世するどころか関東移封のあと蟄居させられます。一方、同じ大政所を丁重にもてなした井伊直政は、秀吉にも気に入られて大名へと出世しました。主君への忠義を貫いた「鬼作左」の生き方は不器用でしたが、その家は「お仙」こと成重によって、丸岡藩として続いていきました。
参考:『藩翰譜』/『寛政重修諸家譜』/『徳川実紀』/丸岡城の展示解説
