北条五代(ほうじょうごだい)とは、戦国時代に小田原城を本拠として関東を治めた北条家の五人の当主、伊勢宗瑞(北条早雲)・氏綱・氏康・氏政・氏直のことです。鎌倉時代の執権の北条氏と区別して「後北条氏」「小田原北条氏」とも呼ばれます。始まりは、室町幕府に仕えていた伊勢氏の一人が、駿河の今川家の家督争いを収めたことでした。そこから伊豆を奪い、相模を統一し、武蔵・上野・房総へと勢力を広げ、天正18年(1590)に豊臣秀吉に滅ぼされるまで、およそ百年。北条家はどうやって関東の覇者になったのか、そして古河公方・佐竹・上杉・里見・千葉・宇都宮・那須といった関東の諸家とどう向き合ったのかを、五代の流れにそって紹介します。

北条五代の一覧 ─ 百年の流れを一目で
| 代 | 当主 | 生没年 | 主なできごと |
|---|---|---|---|
| 初代 | 伊勢宗瑞(早雲) | 1456?〜1519 | 今川家の家督争いを収める/伊豆討ち入り/小田原城を奪う/三浦氏を滅ぼし相模統一 |
| 二代 | 北条氏綱 | 1487〜1541 | 「北条」に改姓/江戸城・河越城を奪う/第一次国府台合戦/古河公方と縁組 |
| 三代 | 北条氏康 | 1515〜1571 | 河越夜戦で上杉・古河公方連合を破る/三国同盟/上杉謙信の小田原包囲に耐える |
| 四代 | 北条氏政 | 1538〜1590 | 上野・北関東へ拡大/天正壬午の乱で徳川と争い和睦/佐竹・宇都宮と対決 |
| 五代 | 北条氏直 | 1562〜1591 | 家康の娘・督姫を妻に/沼田裁定・名胡桃城事件/小田原攻めで降伏 |
初代・伊勢宗瑞(北条早雲) ─ 今川家の縁から伊豆の主へ
「北条早雲」ではなく「伊勢宗瑞」
北条家の初代は、一般には「北条早雲」の名で知られています。しかし本人が「北条」を名のったことは一度もありません。生前の名は伊勢盛時(もりとき)、出家してからは早雲庵宗瑞(そうずい)といい、いまの研究では「伊勢宗瑞」と呼ぶのが一般的です。「北条」の姓は、子の氏綱の代になってから名のられたものです。
今川家の家督争いを収め、興国寺城へ
宗瑞の姉(妹とも)の北川殿は、駿河の守護・今川義忠の妻でした。文明8年(1476)に義忠が戦死すると、今川家では幼い竜王丸(のちの今川氏親)と、一族の小鹿範満のあいだで家督争いが起こります。宗瑞は甥の竜王丸を支えて駿河に下り、長享元年(1487)に範満を討って、竜王丸を今川家の当主に据えました。
この功績によって、宗瑞は駿河東部の興国寺城(静岡県沼津市)を与えられたと伝わります。今川家の重臣として、また当主の叔父として、宗瑞は駿河の東の守りを任されたのです。宗瑞が最初に拠点とした城は興国寺城で紹介しています。
伊豆討ち入り ─ 堀越公方を倒して一国の主に
隣の伊豆国には、室町幕府が関東を治めるために送り込んだ足利氏の一人、「堀越公方」がいました。その跡を継いだ足利茶々丸は、継母と弟を殺して家を乗っ取ったとされ、伊豆は混乱していました。
明応2年(1493)、宗瑞はこの茶々丸を攻めて伊豆に攻め入ります。これが「伊豆討ち入り」です。茶々丸はすぐには討たれず、数年にわたって抵抗しましたが、宗瑞は韮山城を拠点に少しずつ伊豆を平定し、明応7年(1498)ごろまでに伊豆一国を手に入れました。戦国時代の始まりを告げる事件の一つとされます。
小田原城を奪う ─ 大森氏を追い落とす
伊豆の次に宗瑞が狙ったのが、箱根の東にある相模の小田原でした。小田原城を治めていたのは、扇谷上杉家に従う大森氏です。
よく知られているのは、宗瑞が鹿狩りを口実に兵を箱根山中に入れ、夜に千頭の牛の角に松明をつけて大軍に見せかけ、小田原城を一気に落とした、という話です。ただし、これは江戸時代の軍記物に出てくる話で、そのまま事実とは考えられていません。実際には、明応4年(1495)ごろから文亀元年(1501)までのあいだに、大森藤頼から小田原城を奪ったと考えられています。小田原城の歴史と現在の姿は小田原城でくわしく紹介しています。
三浦氏との長い攻防 ─ 相模統一まで二十年
小田原を手に入れても、相模がすぐに宗瑞のものになったわけではありません。相模の東半分には、鎌倉時代から続く名門・三浦氏が大きな勢力を持っていました。当主は三浦道寸(義同)、その子が「八十五人力」とも伝わる剛勇の荒次郎義意です。
永正9年(1512)、宗瑞は三浦道寸の岡崎城(神奈川県平塚市・伊勢原市)を攻め落とし、道寸を三浦半島へ追い込みます。さらに鎌倉の近くに玉縄城を築いて三浦半島への出入り口を押さえ、扇谷上杉家からの援軍を断ち切りました。
三浦氏は半島の先端に近い新井城(神奈川県三浦市)に籠もり、およそ三年にわたって抵抗します。しかし永正13年(1516)、ついに新井城は落ち、道寸・義意父子は討ち死にして三浦氏は滅びました。小田原を取ってから相模を一つにまとめるまで、十数年から二十年近い歳月がかかったことになります。宗瑞はその三年後の永正16年(1519)、韮山城で亡くなりました。
相模を「ダッシュ」で取れた理由
宗瑞が伊豆・相模を手に入れられた背景には、関東の大きな混乱がありました。関東では、関東管領の山内上杉家と扇谷上杉家が「長享の乱」と呼ばれる争いを続け、さらに古河公方の足利家も内紛を抱えていました。宗瑞は、扇谷上杉家と手を組んで山内上杉家と戦ったかと思えば、やがて扇谷方の大森氏や三浦氏を倒すという具合に、関東の大勢力どうしの争いのすきを巧みに突いて領地を広げていったのです。
二代・北条氏綱 ─ 「北条」を名のり、江戸へ
伊勢から北条へ ─ 改姓のねらい
宗瑞の跡を継いだ氏綱は、大永3年(1523)ごろ、姓を「伊勢」から「北条」に改めました。北条は、鎌倉幕府の執権として関東を治めた家の名です。関東の人びとから見れば、伊勢氏は西から来た「よそ者」でした。そこで氏綱は、かつて関東を治めた北条の名を受け継ぐことで、自分たちが関東を治めるのは正しいことだと示そうとしたと考えられています。
氏綱はまた、永正15年(1518)に虎の印判状を始めるなど、北条家の領国経営の基礎を固めました。その制度については北条家の領国経営のしくみで紹介しています。
江戸城と河越城を奪う ─ 武蔵への進出
大永4年(1524)、氏綱は扇谷上杉家の重要拠点だった江戸城を攻め落としました。江戸城は、かつて扇谷上杉家の家宰・太田道灌が築いた城です。江戸湾の水運を押さえるこの城を手に入れたことで、北条家は武蔵へ本格的に進出します。
さらに天文6年(1537)には、扇谷上杉家の本拠だった河越城(川越城)を奪いました。扇谷上杉家は松山城へ逃れ、勢力を大きく失います。
第一次国府台合戦と、古河公方との縁組
このころ関東には、もう一人の「公方」がいました。古河公方・足利高基の弟で、下総の小弓(千葉市)に拠った小弓公方・足利義明です。義明は房総の里見氏などに支えられ、兄の家筋である古河公方と争っていました。
天文7年(1538)、古河公方・足利晴氏の求めに応じて、氏綱は下総の国府台(千葉県市川市)で義明・里見連合軍と戦い、義明を討ち取りました。これが第一次国府台合戦です。国府台の戦いの舞台は国府台城で紹介しています。
この戦いのあと、氏綱は娘(芳春院)を古河公方・足利晴氏に嫁がせました。関東の武士たちが「主君筋」とあおぐ古河公方と縁を結ぶことで、北条家は関東での格をぐっと高めたのです。この縁組が、のちに北条家が古河公方を取り込む布石になります。氏綱は天文10年(1541)に亡くなりました。
三代・北条氏康 ─ 河越夜戦と関東の覇権
最大の危機 ─ 河越城を八万の大軍が囲む
氏綱の跡を継いだ氏康は、すぐに大きな危機に見舞われます。天文14年(1545)、駿河の今川義元が、氏綱の時代に北条に奪われた駿河東部(河東)を取り返そうと攻めてきました。そしてそれに合わせるように、関東では山内上杉憲政・扇谷上杉朝定が手を結び、さらに氏綱の娘婿だったはずの古河公方・足利晴氏までがこれに加わって、北条方の河越城を囲んだのです。その数は八万ともいわれます。
河越城を守っていたのは、氏康の義弟で「地黄八幡」の旗印で知られる猛将・北条綱成でした。綱成はわずか三千ほどの兵で、半年にわたって城を守り抜きます。
河越夜戦 ─ 日本三大奇襲の一つ
西と東の両方から挟まれた氏康は、まず今川義元と和睦し、駿河東部を返すことで西の憂いを断ちました。そして天文15年(1546)4月、八千ほどの兵を率いて河越へ向かいます。
氏康は、上杉方に降伏を申し入れるような態度を見せて相手を油断させたうえで、夜、敵の陣に奇襲をかけました。城内の綱成もこれに合わせて打って出て、上杉・古河公方の連合軍は大混乱に陥ります。扇谷上杉朝定は討ち死にし、扇谷上杉家は滅亡。山内上杉憲政は上野へ逃れ、足利晴氏も古河へ退きました。これが河越夜戦で、桶狭間の戦い・厳島の戦いと並ぶ「日本三大奇襲(夜戦)」の一つに数えられます。

この勝利で、北条家は武蔵のほぼ全域を手に入れました。山内上杉憲政はその後も北条に押され、天文21年(1552)ごろには上野を追われて越後の長尾景虎(のちの上杉謙信)を頼ります。この「関東管領を助ける」という大義名分が、のちの謙信の関東出兵につながっていきます。
甲相駿三国同盟 ─ 背後を固める
天文23年(1554)ごろ、氏康は甲斐の武田信玄、駿河の今川義元と、互いの子どもを結婚させて同盟を結びました。これが甲相駿三国同盟です。氏康の娘が今川氏真に、信玄の娘が氏康の子・氏政に嫁ぎました。西と北の守りを固めたことで、北条家は関東の攻略に力を集中できるようになります。
上杉謙信の小田原包囲に耐える
永禄4年(1561)、関東管領・上杉憲政を奉じた長尾景虎(上杉謙信)が、関東の諸将を集めて十万ともいわれる大軍で小田原城を囲みました。氏康は城に籠もって打って出ず、謙信はひと月ほどで兵を引きます。謙信はこの帰り道に鎌倉の鶴岡八幡宮で関東管領に就き、上杉の名を継ぎました。
謙信はその後もたびたび関東に出兵しますが、北条家は籠城と反撃を繰り返して領国を守り抜きました。永禄12年(1569)には、武田信玄も小田原城を囲んでいますが、やはり落とせずに引き上げています。
第二次国府台合戦 ─ 里見氏を退ける
永禄7年(1564)、氏康は再び国府台で、房総の里見義弘の軍と戦い、これを破りました。第二次国府台合戦です。これによって北条家の勢力は下総・上総へと広がり、里見氏は房総南部へと押し戻されました。
氏康は永禄2年(1559)に家督を氏政に譲ったあとも、「御本城様」として実権を握り続け、元亀2年(1571)に亡くなりました。死の前には、それまで敵対していた上杉謙信と結んだ同盟(越相同盟)を破棄し、再び武田と手を結ぶよう遺言したと伝わります。
四代・北条氏政 ─ 関東制覇と北関東の壁
上野をめぐる攻防と御館の乱
氏政の時代、北条家は上野(群馬県)への進出を本格化させます。上野は上杉謙信と武田信玄も狙っていた土地で、三つの家が入り乱れて争いました。
天正6年(1578)、謙信が急死すると、上杉家では二人の養子が跡を争う「御館の乱」が起こります。その一人・上杉景虎は、氏政の弟(氏康の子)で、越相同盟のときに謙信の養子となっていた人物でした。氏政は弟を助けようとしますが、もう一人の養子・上杉景勝が勝ち、景虎は自害します。景勝と手を結んだ武田勝頼とも北条家は敵対することになりました。
天正壬午の乱 ─ 徳川家康と争い、和睦する
天正10年(1582)、織田信長が武田家を滅ぼし、上野には信長の重臣・滝川一益が入りました。ところが同じ年に本能寺の変で信長が倒れると、氏政の子・氏直は上野へ攻め込み、神流川の戦いで一益を破って上野を手に入れます。
さらに北条家は、主のいなくなった甲斐・信濃をめぐって、徳川家康と争いました(天正壬午の乱)。最後は両者が和睦し、「甲斐・信濃は徳川、上野は北条」と分け合うことで決着します。このとき、家康の娘・督姫が氏直に嫁ぎました。そして、この取り決めのなかで「真田の沼田を北条に渡す」とされたことが、のちに名胡桃城事件の火種になります(徳川と真田は何でもめていたのか)。
北関東の壁 ─ 佐竹・宇都宮との対決
上野をほぼ手に入れた北条家の前に立ちはだかったのが、北関東の大名たちです。とくに常陸の佐竹義重は「鬼義重」とも呼ばれた猛将で、北条家とは氏康の時代から一貫して敵対しました。佐竹は下野の宇都宮国綱と手を結び、北条家の北上を食い止めようとします。
天正12年(1584)には、下野の沼尻(栃木県栃木市)で、北条軍と佐竹・宇都宮の連合軍が百日以上にらみ合いました(沼尻の合戦)。決着はつかずに和睦しましたが、その後も北条家は北関東の国衆を一つずつ従えていき、宇都宮国綱は北条の圧力を避けるため、本拠を宇都宮城から山城の多気山城へ移したともいわれます。
五代・北条氏直 ─ 秀吉の天下と北条家の最期
氏政は天正8年(1580)、家督を子の氏直に譲りました。ただし、北条家の方針を決めていたのは、その後も隠居の氏政でした。
そのころ西では、豊臣秀吉が天下統一を進めていました。秀吉は大名どうしの私的な戦いを禁じ、北条家にも上洛して臣従するよう求めます。北条家は、徳川家康のとりなしもあって上洛を約束し、その条件として沼田問題の解決を求めました。天正17年(1589)、秀吉は沼田領の三分の二を北条に、名胡桃城を含む三分の一を真田に分ける裁定を下します。
ところがその年の11月、沼田城に入った北条方の猪俣邦憲が、真田の名胡桃城を奪う事件が起こります(名胡桃城事件とは)。秀吉はこれを裁定への違反として北条を討つことを決め、天正18年(1590)、二十万を超える大軍で小田原城を囲みました。

三か月あまりの籠城の末、7月に北条家は降伏します。氏政と弟の氏照は切腹を命じられ、氏直は家康の娘婿だったことから命を助けられて高野山へ送られました。氏直は翌天正19年(1591)、大坂で病のため亡くなります。伊勢宗瑞の伊豆討ち入りからおよそ百年、北条五代の歴史はここに幕を閉じました。小田原攻めの経過は小田原征伐で北条氏政はなぜ降伏しなかったのか、北条氏のその後は小田原城落城後の北条氏の行く末はで紹介しています。
北条家と関東の諸家 ─ 敵か、味方か、取り込んだか
北条家が関東を治めるうえで、周りの大名や名家とどう向き合ったのかを整理しておきます。北条家のやり方は、戦って滅ぼす、婚姻や養子で取り込む、同盟を結んで背後を固めるの三つを使い分けるものでした。
| 家 | 本拠 | 関係 | ポイント |
|---|---|---|---|
| 古河公方(足利氏) | 下総・古河 | 婚姻で取り込む | 氏綱の娘が晴氏に嫁ぎ、その子・義氏を北条が公方に立てる。義氏の死後、公方家は事実上北条の保護下に(古河城) |
| 扇谷上杉家 | 武蔵・河越 | 敵(滅ぼす) | 江戸城・河越城を奪われ、河越夜戦で当主・朝定が討ち死にして滅亡 |
| 山内上杉家・上杉謙信 | 上野・平井/越後 | 敵(一時同盟) | 憲政を上野から追い、憲政を受け継いだ謙信と長く争う。越相同盟で一時手を結ぶ |
| 佐竹氏 | 常陸・太田 | 一貫して敵 | 北関東の反北条勢力の中心。宇都宮・結城などと連合して対抗 |
| 宇都宮氏 | 下野・宇都宮 | 敵 | 佐竹と結んで北条に対抗。北条の圧力で本拠を多気山城へ移したとも |
| 那須氏 | 下野・烏山 | 付かず離れず | 宇都宮・佐竹と争う関係から、北条とは連携する場面もあったが、家臣になったわけではない |
| 里見氏 | 安房・上総 | 敵→和睦 | 国府台で二度戦う。天正5年に和睦(房相一和)し、氏政の娘が里見義頼に嫁ぐ |
| 千葉氏 | 下総・本佐倉 | 従属→一門化 | 早くから北条に従い、当主の死後に氏政の子・直重が養子に入る |
| 武田氏・今川氏 | 甲斐・駿河 | 同盟と敵対をくり返す | 三国同盟で結ぶが、今川の没落後は武田と戦い、のち再び同盟。勝頼とは御館の乱以後に敵対 |
| 徳川氏 | 三河・駿河など | 敵→同盟 | 天正壬午の乱で争ったのち和睦し、督姫が氏直に嫁ぐ |
古河公方は「政略結婚」で組み込んだのか
はい、そう言ってよいでしょう。氏綱の娘・芳春院が古河公方・足利晴氏に嫁ぎ、二人のあいだに生まれたのが足利義氏です。晴氏は河越夜戦で北条と敵対して敗れ、やがて北条の働きかけで、北条の血を引く義氏が公方の座につきました。こうして古河公方は、北条家にとって「関東を治める正しさ」を示す看板になったのです。さらに義氏の妻には氏康の娘が迎えられました。天正11年(1583)に義氏が亡くなると、男子がいなかったため、娘の氏姫が家を守る形となり、古河公方家は事実上北条家の保護のもとに置かれました。
那須氏・宇都宮氏は「属国」だったのか
宇都宮氏は最後まで北条と敵対した側です。一方の那須氏は、宇都宮氏や佐竹氏と争っていたため、敵の敵として北条家と連携する場面がありました。ただ、北条の家臣団に組み込まれたり、北条の命令で兵を出したりする関係ではなく、「属国」と呼べるほどの従属ではありません。小田原攻めのとき、那須氏は秀吉のもとに参陣しなかったため、所領を没収されています。
千葉氏は北条に従ったのか
下総の名門・千葉氏は、早くから北条家に従った国衆の代表です。天正13年(1585)に当主の千葉邦胤が家臣に殺されると、氏政の子・直重が養子として千葉家を継ぎ、千葉氏は事実上北条一門となりました。本拠の城は本佐倉城で紹介しています。
北条家に従った国衆と支城の配置は北条家の領国とはで、地図と表にまとめています。
あわせて読みたい:北条氏政とは(谷原章介)
北条五代についてよくある質問
Q. 北条早雲は本当に「北条」を名のっていたのですか?
A. 名のっていません。本人の名は伊勢盛時、出家後は伊勢宗瑞です。「北条」の姓は二代目の氏綱が大永3年(1523)ごろに名のり始めたもので、「北条早雲」は後世の呼び名です。
Q. 北条五代は何年続いたのですか?
A. 宗瑞の伊豆討ち入り(明応2年・1493年)から小田原城の開城(天正18年・1590年)まで、およそ百年です。
Q. 河越夜戦とはどんな戦いですか?
A. 天文15年(1546)、北条氏康が河越城を囲んだ山内上杉・扇谷上杉・古河公方の連合軍に夜襲をかけて破った戦いです。扇谷上杉家は滅び、北条家は武蔵のほぼ全域を手に入れました。
Q. 鎌倉時代の北条氏と戦国時代の北条氏は関係がありますか?
A. 血のつながりはないと考えられています。戦国時代の北条氏は伊勢氏の出身で、鎌倉時代の執権・北条氏の名を受け継いで名のりました。区別するために「後北条氏」とも呼ばれます。
Q. 『豊臣兄弟!』で北条氏政を演じるのは誰ですか?
A. 谷原章介さんです。
まとめ
北条五代の歴史は、今川家の家督争いを収めた伊勢宗瑞が伊豆を奪い、小田原城を手に入れ、三浦氏との長い戦いの末に相模を統一したところから始まりました。二代氏綱は「北条」を名のって江戸城・河越城を取り、古河公方と縁を結びます。三代氏康は河越夜戦で上杉家を破り、上杉謙信や武田信玄の小田原包囲にも耐えて関東の覇者となりました。四代氏政・五代氏直の時代に領国は最大となりますが、佐竹・宇都宮の壁を越えられないまま、豊臣秀吉の天下統一の前に滅びます。名胡桃城事件という小さな火種が、百年の家を終わらせたのです。
参考:黒田基樹『戦国北条氏五代』戎光祥出版/黒田基樹『北条氏康の妻 瑞渓院』平凡社/黒田基樹『伊勢宗瑞』戎光祥出版/小田原市『小田原北条氏五代』/『北条五代記』
