『豊臣兄弟!』で林裕太が演じる長宗我部信親とは:信長が烏帽子親になった元親の嫡男、戸次川での死と長宗我部家のゆくえ

岡豊城/アクセス・場所・地図 四国統一まで目前まで迫った名将 長宗我部元親の居城 岡豊城

長宗我部信親(ちょうそかべ のぶちか)は、土佐の長宗我部元親の嫡男です。大河ドラマ『豊臣兄弟!』では林裕太さんが演じています。織田信長を烏帽子親として「信」の字を与えられ、文武ともにすぐれた跡継ぎとして期待されましたが、天正十四年(1586)、豊臣秀吉の九州攻めの前哨戦となった豊後の戸次川の戦いで、二十二歳で討ち死にしました。信親の死は元親を深く打ちのめし、長宗我部家の跡継ぎ争いと衰えの始まりになります。

この記事のポイント
  • 『豊臣兄弟!』で長宗我部信親を演じるのは林裕太さん
  • 永禄八年(1565)、元親の嫡男として生まれた。母は石谷光政の娘で、明智光秀の重臣・斎藤利三とつながる家の出
  • 信長を烏帽子親として元服し、「信親」と名のった。時期は天正三年(1575)とも、天正六年ごろともいわれる
  • 背が高く、礼儀正しく、武芸にも学問にも秀でたと伝わる
  • 天正十四年十二月、戸次川の戦いで仙石秀久らとともに島津軍と戦い、二十二歳で戦死した
  • 信親の死後、元親は四男の盛親を跡継ぎに選び、一門の吉良親実らがこれに反対して家中が割れた
目次

『豊臣兄弟!』で林裕太さんが演じる信親

大河ドラマ『豊臣兄弟!』では、長宗我部信親を林裕太さんが演じています。林さんにとっては大河ドラマ初出演です。父の元親は磯部寛之さんが演じ、四国攻めの回から長宗我部の親子が物語に加わりました。この記事では、ドラマで信親が気になった方に向けて、史料から分かる信親の生涯をたどります。四国攻めそのものは第36回「姫若子と鬼若子」史実解説で解説しています。

元親の嫡男として生まれる

信親は永禄八年(1565)、長宗我部元親の長男として生まれました。通称は弥三郎です。母は元親の正室で、足利将軍家に仕えた石谷光政の娘でした。この母方の縁で、長宗我部家は明智光秀の重臣・斎藤利三とつながっていきます(長宗我部元親の妻は誰だったのか)。

生まれ育ったのは、長宗我部の本拠岡豊城です。信親が生まれたころ、父の元親は土佐の統一戦のさなかにありました。叔父の吉良親貞や香宗我部親泰が土佐の西と東を受け持ち、一族総出で国を広げていた時代です(長宗我部兄弟とは何者か)。

岡豊城跡に残る石段

長宗我部の本拠・岡豊城跡の石段。信親はこの城で育った

信長が烏帽子親になった「信親」

元親は、阿波・讃岐の三好氏に対抗するため、織田信長と手を結びました。そのあかしとして、嫡男の元服で信長に烏帽子親を頼み、「信」の一字をもらって「信親」と名のらせます。時期は天正三年(1575)とも、天正六年(1578)ごろともいわれ、取り次いだのは元親の妻の縁でつながる明智光秀でした。信長からは名刀や馬も贈られたと伝わります。

天下人の名を一字もらった跡継ぎは、長宗我部と織田の結びつきそのものでした。ところがのちに信長は四国政策を改め、長宗我部と対立していきます。この流れは本能寺の変の背景のひとつとしても語られます。番組で描かれた兄弟の外交は長宗我部兄弟!(NHK)の内容と史実で紹介しています。

▽ よく語られる話
信長は信親をたいへん気に入り、養子にしたいと望んだ。
▼ 史実ではこうです
信長が信親を養子に望んだという話は伝わっていますが、同時代の確かな記録で裏づけられたものではありません。確かなのは、信長が烏帽子親となって一字を与えたこと、それが長宗我部と織田の同盟のしるしだったことです。

文武にすぐれた跡継ぎ

信親は背が高く、六尺一寸(約百八十四センチ)あったと伝わります。色白でおだやかな顔立ち、礼儀正しく、家臣や領民からの人望も厚かったといいます。武芸にすぐれ、学問にも励んだ、まさに理想の跡継ぎとして描かれる人物です。

若いころ「姫若子」と呼ばれた父の元親とは、どこか似た姿でもあります。元親がどうやって「鬼若子」になったのかは長宗我部元親はなぜ「姫若子」から「鬼若子」になったのかで書いています。宣教師フロイスの記録には、信親がキリスト教に関心を寄せていたことも書き残されています。

豊臣に降り、九州へ

天正十三年(1585)、豊臣秀長を総大将とする四国攻めで長宗我部は降り、土佐一国に押し込められました(四国国分とは)。翌年、秀吉は九州の島津氏を攻めるため、豊後の大友氏を助ける先発隊を送ります。軍監の仙石秀久のもと、長宗我部元親・信親の親子と、讃岐の十河存保がこれに加わりました。

昨日まで敵だった豊臣の命令で、長宗我部は九州へ渡ることになったのです。九州攻めの全体像は四国平定・九州平定をわかりやすく解説にまとめています。

戸次川の戦い、二十二歳の死

天正十四年(1586)十二月、豊後の戸次川(いまの大野川)をはさんで、先発隊は島津家久の軍と向き合いました。秀吉からは本隊が着くまで守りを固めるよう命じられていましたが、仙石秀久は川を渡って攻めかかることを主張します。信親はこれに反対したと伝わりますが、押し切られました。

渡河した豊臣方は島津軍の得意とする戦法にはまって崩れ、乱戦のなかで信親は父とはぐれます。最後まで踏みとどまって戦いましたが、ついに討ち死にしました。二十二歳でした。信親とともに戦った多くの家臣が命を落とし、十河存保もこの戦いで亡くなっています(十河存保とは)。戦いの流れは戸次川の戦いとはでくわしく書いています。

▽ よく語られる話
信親は仙石秀久の無謀な命令のせいで死んだ。
▼ 史実ではこうです
仙石秀久が秀吉の命令に背いて川を渡ったことは、諸記録が伝えるとおりで、秀吉はのちに仙石の所領を取り上げています。ただし、乱戦のなかで先発隊全体が崩れたのであり、責めを一人に負わせるだけでは戦いの全体は見えません。仙石のその後は仙石秀久はなぜ改易され、なぜ大名に戻れたのかをご覧ください。

父・元親の悲しみ

戦場から逃れた元親は、嫡男の死を知って深く嘆きました。家臣の谷忠澄を島津の陣へ送り、信親の亡骸を引き取らせたと伝わります。信親は高野山に葬られ、のちに土佐でも供養されました。その後の元親の歩みは長宗我部兄弟とは何者かの「弟が死ぬと、兄は止まる」でも触れています。

岡豊城跡に残る石積み

岡豊城跡の石積み。信親の死後、長宗我部家は少しずつ傾いていった

信親の死が招いた跡継ぎ争い

信親を失った元親は、四男の盛親を跡継ぎに選びました。信親の娘を盛親の妻とし、信親の血を家に残そうとしたのです。しかし、年長の次男・三男をさしおく決定に、一門の吉良親実らは反対しました。天正十六年(1588)、親実は元親の命で命を絶つことになります(吉良親貞とは)。

家中は割れ、元親は晩年まで信親を失った痛手から立ち直れなかったといわれます。元親の死後、盛親は関ヶ原で西軍につき、長宗我部家は土佐を失いました。家の終わりまでは長宗我部氏はどうなったのかにまとめています。

▷ 大河ドラマではこう描かれました
『豊臣兄弟!』では林裕太さんが長宗我部信親を演じ、父の元親(磯部寛之さん)とともに四国攻めの回から登場しています。第36回「姫若子と鬼若子」の解説は第36回の史実解説をご覧ください。

よくある質問

Q. 『豊臣兄弟!』で長宗我部信親を演じているのは誰ですか。
A. 林裕太さんです。父の元親は磯部寛之さんが演じています。

Q. 信親が亡くなったのは何歳ですか。
A. 天正十四年(1586)十二月の戸次川の戦いで、二十二歳でした。

Q. 信親が生きていたら、長宗我部家はどうなっていましたか。
A. 歴史に「もし」はありませんが、跡継ぎ争いで家中が割れることはなかったかもしれません。信親の死が元親と家に与えた影響は、それほど大きかったと考えられています(豊臣兄弟と長宗我部兄弟)。

Q. 信親ゆかりの場所はどこですか。
A. 育った岡豊城跡(高知県南国市)と、討ち死にした戸次川の古戦場(大分市)です。長宗我部の晩年の居城は浦戸城です。

まとめ

長宗我部信親は、信長を烏帽子親とし、文武ともにすぐれた元親の嫡男でした。『豊臣兄弟!』では林裕太さんが演じています。豊臣に降ったのち、九州攻めの先発隊として渡った戸次川で、二十二歳の若さで討ち死にしました。信親の死は元親を打ちのめし、跡継ぎ争いを経て、長宗我部家が土佐を失うまでの道の入口になります。人物の早見は姉妹サイトの日本の武将ガイド「長宗我部信親とは」でも紹介しています。長宗我部の記事は長宗我部氏特集にまとめています。

  • URLをコピーしました!
目次