北山一揆(きたやまいっき)は、天正十四年(1586)、紀伊の奥熊野・北山の地侍たちが、豊臣秀長の支配に反発して起こした一揆です。原因は太閤検地への反発とされますが、確かなことはわかっていません。秀長は自ら出陣し、のちに藤堂高虎らが山の上に赤木城を築いて鎮めにかかりました。一揆がほぼ収まったのは天正十七年(1589)、三年がかりでした。熊野は良材の産地で、秀長の山奉行・吉川平介が材木を扱った土地でもあります。
- 天正十四年(1586)八月、奥熊野の北山の地侍が蜂起した
- 原因は検地への反発とされるが、はっきりしない
- 秀長は自ら出陣し、藤堂高虎・羽田正親らが鎮圧にあたった
- 高虎は北山の山中に赤木城を築き、一揆を抑える拠点とした
- 天正十七年(1589)五月までにほぼ制圧。慶長十九年(1614)にも別の北山一揆が起きている
北山一揆とは:秀長の熊野支配に、山の人びとが抗った
天正十三年(1585)、秀吉の紀州攻めで紀伊は平定され、一国まるごと秀長の領国になりました。秀長は和歌山・湊・田辺・新宮などの要地に家臣や在地の有力者を置き、検地を進めて国を作り替えていきます。紀州攻めそのものはなぜ秀吉は太田城を水攻めにしたのかで紹介しています。
ところが紀伊の南、熊野の山奥は簡単には治まりませんでした。翌天正十四年(1586)八月、奥熊野の北山と呼ばれる地域の地侍たちが蜂起します。これが北山一揆です。北山は、いまの三重県熊野市から奈良県下北山村・上北山村にかけての山間の地で、深い山と谷に囲まれた土地でした。
なぜ北山の人びとは立ち上がったのか
北山一揆の原因としてよく挙げられるのは、秀長が進めた検地への反発です。検地によって田畑の広さと収穫が帳面に書き上げられれば、年貢の取り立ては厳しくなり、それまで地侍が持っていた権利も揺らぎます。ただし、一揆の原因を検地と明記した確かな史料はなく、はっきりしたことはわかっていません。
もうひとつ見逃せないのが、熊野の山そのものの値打ちです。熊野は全国有数の良材の産地で、豊臣政権は大坂城や京の大仏殿のために熊野の木を求めていました。山を暮らしの場としてきた人びとにとって、新しい領主が山の木に手を伸ばしてくることは、大きな変化だったはずです。秀長のもとで熊野の山を預かっていたのは山奉行の吉川平介でした。
秀長の出陣と、鎮圧にあたった家臣たち
一揆の知らせを受けた秀長は、天正十四年八月の末に自ら出陣したとされます。鎮圧には藤堂高虎や羽田正親があたり、熊野の新宮城主・堀内氏善らも討伐に加わりました。山深い北山では大軍を動かしにくく、一揆勢は地の利を生かして抵抗を続けます。鎮圧は一度では終わらず、何年にもわたる戦いになりました。
赤木城 ── 高虎が山の上に築いた城
一揆を抑えるため、藤堂高虎は北山の山中に城を築きました。それが赤木城です。いまの三重県熊野市紀和町にあり、天正十六年(1588)から十七年(1589)ごろに築かれたとされます。山の尾根に石垣を積んだ城で、枡形の虎口など高虎らしい工夫が残っています。霧が出ると雲海に浮かぶように見えることから、「天空の城」とも呼ばれます。
赤木城は、和歌山城に続く高虎の初期の築城のひとつです。高虎の城づくりの歩みは藤堂高虎はなぜ築城の名手になったのかで紹介しています。
一揆の終わり ── 三年がかりの鎮圧
北山一揆がほぼ鎮められたのは、天正十七年(1589)五月ごろです。蜂起からおよそ三年がかりでした。秀長は大和・紀伊・和泉の百万石を治めましたが、寺社の国・大和と並んで、熊野の山もまた手ごわい土地だったことがわかります。秀長が大和をどう治めたかは秀長は寺社の国・大和をどう治めたのかで紹介しています。
一揆が続いていた天正十六年には、山奉行の吉川平介が熊野の木の売り上げを着服した罪に問われ、責めが秀長にまで及んでいます。熊野の山をめぐる問題は、一揆が収まったあとも秀長を悩ませ続けました。その経緯は吉川平介とはと、秀吉の処罰の厳しさを扱った秀吉の処罰はなぜ家族まで及んだのかで紹介しています。
もうひとつの北山一揆 ── 慶長十九年
北山一揆には、もうひとつあります。慶長十九年(1614)十二月、大坂冬の陣が起きたさなかに、紀州藩主・浅野長晟の検地に不満を持つ北山の地侍や山伏が蜂起しました。こちらは浅野氏によって鎮められ、赤木城がふたたび討伐の拠点になったと考えられています。秀長の時代の一揆とは、時期も相手も違う別の出来事です。浅野氏が藩主となった紀州の城は和歌山城で紹介しています。
『豊臣兄弟!』で北山一揆は描かれるのか
ドラマは第37回から大和郡山編に入り、秀長が寺社勢力や検地に向き合う姿が描かれています。北山一揆は、まさにこの時期、秀長の領国の南で起きた出来事です。検地への反発という点では、大和の寺社や村の抵抗と同じ流れの上にあり、藤堂高虎(佳久創)や羽田正親(平埜生成)が鎮圧にあたった史実もあります。描かれるかどうかはわかりませんが、高虎の築城の腕が見られる場面として登場する可能性はあります。吉川平助(松岡広大)の史実は吉川平介とはで紹介しています。
- 検地に反発する人びとと向き合う秀長の、もうひとつの試練として
- 藤堂高虎が山の上に城を築く場面として
- 熊野の山と材木をめぐる、吉川平助(松岡広大)の物語の前ぶれとして
ドラマではこう描かれています
- 秀長は紀伊をどう治めたのか ── 紀州攻めのあと、秀長が紀伊のどこに誰を置いたのか
- 熊野の木はなぜ豊臣政権に狙われたのか ── 大坂城と大仏殿のための熊野の木と、吉川平介
まとめ
北山一揆は、秀長が紀伊を治めはじめた翌年に、熊野の山奥の地侍たちが起こした一揆です。原因は検地への反発とされますが確かではなく、熊野の山と木をめぐる支配の変化が背景にあったとみられます。秀長は自ら出陣し、藤堂高虎は赤木城を築いて、三年がかりで鎮めました。秀長の生涯は豊臣秀長とはからどうぞ。
参考
- 『多聞院日記』
- 熊野市教育委員会「赤木城跡」解説
- 黒田基樹『羽柴秀長とその家臣たち』角川選書

