- 『豊臣兄弟!』で平埜生成さんが演じる羽田正親(はねだ まさちか)は、秀長の家臣団を支えた重臣のひとりです
- 秀長のもとで和歌山城の普請奉行を務め、大和の小泉城主(四万八千石)、のちに宇陀松山城主となりました
- 秀長が亡くなり、跡継ぎの秀保も急死すると、秀長の家臣たちはそれぞれ別の道を歩みます
- 羽田正親は秀次事件に連座して越前に送られ、文禄4年(1595)8月、秀次に殉じて自害したとされます
- 同じ秀長の家臣でも、桑山重晴や藤堂高虎のように生き延びて大名になった人もいて、その分かれ道がこの記事のテーマです
大河ドラマ『豊臣兄弟!』で、秀長の家臣・羽田正親を演じているのが平埜生成(ひらの きなり)さんです。秀長という「名補佐役」を、さらに支える補佐役として描かれている人物ですが、史実の羽田正親は、主君の家が絶えたあと、思いもよらない最期を迎えることになります。この記事では、秀長が亡くなったあとに羽田正親がどう生き、なぜ死ぬことになったのかを、同じ秀長の家臣たちの「その後」と比べながらたどります。羽田正親の人物像そのものは 羽田正親とは でくわしく紹介しています。
羽田正親は、秀長の家中で何をしていたのか
羽田正親は近江国の上羽田村(いまの滋賀県東近江市)の出身と伝わり、早くから秀長に仕えました。天正11年(1583)の賤ヶ岳の戦いでは、桑山重晴とともに賤ヶ岳の砦を守っています。天正13年に秀長が紀伊を与えられると、和歌山城を築く普請奉行のひとりを務め、同じ年に大和で四万八千石を与えられて小泉城(いまの奈良県大和郡山市)の城主となり、従五位下・長門守に任じられました。
天正16年(1588)には宇陀松山城に移り、同じ年、秀吉が京に大仏殿を建てるための材木を、熊野から集める役目も命じられています。城を築き、材木を集め、領地を治める、という秀長の家中らしい実務の人だったことが分かります。秀長の家臣団の全体像は 豊臣秀長の家臣団とは をご覧ください。
秀長の死と、大和豊臣家の断絶
天正19年(1591)1月、秀長が郡山城で亡くなります。跡を継いだのは、秀吉の姉ともの子で、秀長の養子になっていた秀保でした。まだ十三歳の秀保を、羽田正親ら秀長以来の家臣たちが支えることになります。

ところが文禄4年(1595)4月、秀保は十七歳で急死し、跡継ぎのないまま大和豊臣家は絶えてしまいました。仕える家がなくなった家臣たちは、それぞれ新しい行き先を探さなければなりません。秀保の死については 豊臣秀長の子孫・家系はどうなったのか にくわしく書いています。
秀次事件と、羽田正親の最期
秀保の死からわずか三か月後の文禄4年7月、秀保の兄で関白だった豊臣秀次が謀反の疑いをかけられ、高野山で切腹する秀次事件が起きます。秀次に近かった大名や家臣たちも次々と処分され、羽田正親もこれに連座して越前に送られました。そして同じ年の8月24日、秀次に殉じて自害したと伝えられています。
秀次事件の全体像は 秀次事件をわかりやすく解説 に、秀吉の処罰がなぜ周りの人びとにまで及んだのかは 秀次事件はなぜ妻子三十九人にまで及んだのか に書いています。
同じ秀長の家臣たちは、どうなったのか
秀長の家が絶えたあと、家臣たちの運命は大きく分かれました。主な重臣の「その後」を並べると、羽田正親の最期がどれほど紙一重だったかが見えてきます。
| 家臣 | 大和豊臣家が絶えたあと |
|---|---|
| 羽田正親 | 秀次事件に連座し、文禄4年8月に自害 |
| 桑山重晴 | 秀吉の直臣となって和歌山を任され、八十三歳まで生きる |
| 藤堂高虎 | 秀保の死後に高野山へ入るが、秀吉に呼び戻されて伊予の大名に。のち伊勢・伊賀を治める |
| 横浜一庵 | 秀吉に仕えるが、慶長元年(1596)の伏見の大地震で亡くなる |
| 小堀正次 | 秀吉の直臣となり、のちに子の小堀遠州へ家を伝える |
分かれ目になったのは、主家が絶えたとき、秀吉の直臣になれたか、秀次のもとへ移ったか、という一点でした。同じ秀長の家臣として並んでいた人びとが、わずか数か月のうちに、大名への道と死とに分かれていったのです。それぞれの人物については 桑山重晴とは、藤堂高虎はなぜ築城の名手になったのか、横浜一庵とは、小堀正次とは で取り上げています。
羽田正親が治めた城のいま
羽田正親が最初に入った小泉城は、のちに片桐且元の一族の片桐貞隆が入って小泉藩の陣屋となり、いまは大和郡山市の小泉の町に堀や石垣の名残が見られます。二つ目の居城・宇陀松山城は、羽田正親のあと多賀秀種、福島高晴と城主が替わり、元和元年(1615)に幕府の命で壊されました。いまは国の史跡として、山の上に曲輪や石垣の跡が残り、ふもとには城下町の町並みが続いています。
ドラマで注目したいところ
キャスト発表では、平埜生成さんの羽田正親は「名補佐役の補佐役」と紹介されています。兄を支える秀長を、さらにそばで支える役どころというわけです。史実の羽田正親を知っていると、秀長の家臣たちが並んで働く場面の一つひとつが、のちに分かれていく道の前の、束の間の姿に見えてくるはずです。大和の国づくりが描かれる第37回・第38回の史実は 第37回「秀長の国」の史実 と 第38回「和を以て、大和をなす」あらすじ予想と史実 にまとめています。
よくある疑問
Q. 羽田正親を演じているのは誰ですか?
A. 平埜生成(ひらの きなり)さんです。
Q. 羽田正親の読み方は?
A. 「はねだ まさちか」と読みます。官途名は長門守です。
Q. 羽田正親はなぜ死んだのですか?
A. 文禄4年(1595)の秀次事件に連座して越前に送られ、同じ年の8月に、秀次に殉じて自害したと伝えられています。
Q. 羽田正親の子孫はいますか?
A. 羽田正親の家がその後どうなったのかを伝える確かな記録は見当たりません。
まとめ
羽田正親は、秀長のもとで和歌山城の普請、大和の小泉城と宇陀松山城の支配を担った重臣でした。けれども秀長が亡くなり、秀保も急死して大和豊臣家が絶えると、身を寄せた秀次の失脚に巻き込まれ、文禄4年に自害します。同じ秀長の家臣でも、秀吉の直臣となった桑山重晴や、呼び戻された藤堂高虎は生き延びて大名となりました。主家を失ったときにどこへ行くか、その一つの選択が、秀長を支えた家臣たちの運命を大きく分けたのです。

