箱本十三町とは:豊臣秀長が郡山につくった自治のまちと、いまも残る町名

大和郡山城/アクセス・地図・場所 豊臣秀長の大和・紀伊・和泉100万石の居城 郡山城

箱本(はこもと)とは、豊臣秀長が大和郡山の城下に置いた自治の仕組みです。選ばれた十三の町が当番を持ち回り、朱印状をおさめた箱を預かった町がその月の行政を担いました。町は地子(宅地にかかる税)を免除され、そのかわり伝馬や防火などの務めを負います。寺が握っていた大和の経済を城下へ引き寄せる、秀長の町づくりの中心がこれでした。

目次

箱本とは ── 箱を回して当番を務めた町

名の由来は、特権を認めた朱印状を箱におさめ、当番の町がその箱を預かったことによるといわれます。箱を持っている町が、その月のまとめ役です。訴えごとの取りさばき、人の出入りの把握、火事への備え、荷を運ぶ馬の手配。こうした実務を町人自身が回しました。

武士が上から命じるのではなく、町が自分たちで決めて回す。郡山城という城があり、その足もとに自治を認められた町がある。この二段構えが、秀長の城下の形でした。

十三の町 ── 名前が、そのまま仕事をあらわしている

箱本を構成したのは、綿町・紺屋町・本町・今井町・奈良町・堺町・藺町・柳町・茶町・豆腐町・魚塩町・材木町・雑穀町の十三町です。並べてみると、性格が二つに分かれているのがわかります。

▶ 十三町の顔ぶれ
  • 扱う品で分けた町 … 綿町、紺屋町(染物)、藺町(い草)、茶町、豆腐町、魚塩町、材木町、雑穀町
  • 出身地で分けた町 … 今井町、奈良町、堺町
  • 町の中心 … 本町、柳町

今井町・奈良町・堺町という名がならぶのは、そこから人を呼んだからです。今井は大和の商業の町、奈良は寺の門前町、堺は言うまでもない貿易港。すでに力のある町から職人と商人を引き抜いて、業種ごとにまとめて住まわせた。そうして町名が残りました。

業種で町を分けるやり方は、城下町の設計として珍しいものではありません。ただ郡山の場合、その町の一つひとつに自治の当番が回ってくるところが違います。紺屋町の職人も、豆腐町の店も、順番がくれば町のまとめ役になる。郡山の城下で筆をつくった職人のような人びとが、こうして町の運営にも加わっていきました。

今井町・奈良町・堺町 ── 呼ばれてきた人びと

十三町のうち三つが、よその町の名を名乗っています。ここには秀長のやり方がはっきり出ています。

今井町は、大和の中南部にあった今井のことです。寺内町として発展し、商人が力を持っていました。奈良町は興福寺の門前で、大和の商いの中心です。堺町の堺は、言うまでもなく国際貿易で栄えた自治都市でした。

いずれも、すでに商人が集まっている場所です。ゼロから商人を育てるのではなく、できあがった力をそっくり移す。免税と自治という条件を示して、移るだけの理由をつくりました。寺社の領地を削ることと、この人集めは同じ政策の裏表です。

結果として、寺の門前にあった賑わいは郡山の城下へ移りました。寺は荘園を減らされ、門前の商いも細っていきます。刀を使わずに、人の流れだけを変えた。地味ですが、効き目の長い手でした。

なぜ秀長は、商人を呼び寄せたのか

大和という国では、経済が寺の側にありました。春日大社と興福寺が荘園を持ち、門前に市が立ち、金も人もそこへ集まります。大和の戦国時代を通じて、この構造は変わりませんでした。

寺を焼けば手っ取り早いのですが、秀長はそれをしません。かわりに、寺の門前にいた商人と職人に、城下へ移ってくる理由をつくりました。税を免除し、自治を認め、同業ごとに町を与える。移ったほうが得だ、と思わせたわけです。

検地で年貢の流れを変えたのと、やっていることは同じです。力で奪わず、有利な仕組みを別に用意して、人のほうを動かす。寺の坊官と正面からやり合うより、はるかに効きました。

特権と、その代わりに負ったもの

箱本の町が得たのは、まず地子の免除です。宅地にかかる税がかからない。これは大きな魅力でした。さらに同業の町には営業上の特権が認められ、その町以外で同じ商いをすることが制限されました。

ただし、もらうだけではありません。町は伝馬の負担を負います。公用の荷や人を次の宿まで運ぶ馬と人足を、町が出すのです。火事が出れば町が消しに走り、治安も町が見る。免除された税のぶんを、労役と責任で返す形でした。

町の代表は町年寄と呼ばれ、当番の町から出ました。武士の役人が常駐して管理するのではなく、町人の側が責任を持つ。庄屋が村をまとめていたのと同じ考え方を、城下の町に当てはめた形だといえます。

この関係は江戸時代に入っても続きます。郡山藩のもとでも箱本の仕組みは維持され、町名とともに近代まで残りました。秀長がつくった枠組みが、二百年以上動き続けたことになります。

城と町は、同時に進んでいた

郡山城の普請と城下町の建設は、別々の話ではありません。石が足りずに石仏まで石垣に積んだのと同じ時期に、町割りが引かれ、商人が呼ばれています。城だけ立派でも、人がいなければ国は回りません。

秀長が大坂城の築城で石と材木を集めた経験は、ここで生きたはずです。どこに何がいくつ必要かを数えて手配する。この能力が、城の普請でも町づくりでも同じように使われました。秀長の家臣団に実務型の人材が多いのも、こうした仕事の積み重ねによるものでしょう。

秀長のあと、郡山はどうなったのか

大和大納言家が絶えたあと、郡山は増田長盛の支配を経て、江戸時代には水野・松平・本多と城主が替わります。享保九年(一七二四)に柳沢吉里が甲斐から入り、以後は柳沢家が幕末まで治めました。

城主が何度替わっても、箱本の仕組みは残りました。町が自分たちで回す枠組みは、領主にとっても手間が少ないからです。村の側で村請が江戸時代に固定されたのと、まったく同じ理屈が町でも働きました。

金魚の養殖が郡山で盛んになるのも、この柳沢家の時代からだとされます。藩士の内職として始まり、のちに町の産業になりました。水の豊かな城下という条件と、町ぐるみで何かを担う気風。どちらも秀長の町づくりが用意したものです。

町名を歩くと何が見えるか

▶ いまも残る町名と、その手がかり
  • 紺屋町 … 道の中央を水路が流れます。染物に水を使った名残で、町家も残っています
  • 材木町・豆腐町・魚塩町 … 扱った品がそのまま町名です。城下のどこに何を置いたかがわかります
  • 今井町・奈良町・堺町 … よその町から呼ばれた人が住んだ区画。人を移して町をつくったことの証拠です
  • 柳町 … 城下の中心に近い通り。いまも商店街として続いています

城跡から町へ下りて町名を追うと、四百年前の設計図の上を歩いていることになります。郡山城の石垣を見たあとにこの順で回るのがおすすめです。

よくある疑問

▶ 箱本十三町についてよく聞かれること
  • 「箱本」の名の由来は? … 特権を認めた朱印状を箱におさめ、当番の町がその箱を預かったことによるといわれます
  • いつ始まった? … 秀長の城下経営がほぼ整った天正十五年(一五八七)ごろとみられています
  • 十三町は最初から十三だった? … 十三という数は後年に固まった呼び方です。町の数や顔ぶれには変遷があります
  • いまも見られる? … 町名と紺屋町の町家が残っています。城跡からは徒歩圏内です
  • 京の町衆とどう違う? … 京は門前から自然に育った町、郡山は領主が設計して人を呼んだ町。出発点が逆です

いまも歩ける ── 残った町名

大和郡山の市街を歩くと、紺屋町、材木町、豆腐町といった町名にそのまま出会えます。紺屋町には、道の中央を水路が流れる独特の町並みが残っています。染物に水を使った名残です。

城跡からは徒歩圏内ですから、郡山城跡を見たあとにそのまま町へ下りるのがおすすめです。石垣を見てから町名を追うと、城と町が一組で設計されたことが実感できると思います。

▷ 次回はこんな話になりそうです(放送前の見通し)
第三十七回の終わりに、秀長は「和をもって、大和をなす」と語りました。次回の予告では郡山を栄えた町にすると宣言しています。史実の流れでいえば、ここから城下町づくりが本格化し、この記事で書いた箱本の仕組みへつながっていきます。商人をどう呼ぶのか、寺とどう折り合うのか。放送後に、実際どう描かれたかをこの箱へ書き足します。

郡山城の支城として改修された高取城跡:日本三大山城のひとつ、標高583メートルの総石垣もあわせてどうぞ。

城下の町ではなく村の側の自治については惣村とは:戦国の村がつくった自治と、乙名・村掟・自検断・地下請の仕組みを。

まとめ

この記事の要点
  • 箱本は、秀長が郡山城下に置いた町人自治の仕組みです
  • 朱印状をおさめた箱を当番の町が預かったことが、名の由来といわれます
  • 十三町は業種別の町と、今井・奈良・堺から人を呼んだ町で構成されました
  • 地子免除と営業の特権を与えるかわりに、伝馬・防火・治安の務めを負わせました
  • 寺に集まっていた大和の経済を、城下へ移すための仕掛けでした

城を築くことと、町をつくることは同じ一つの仕事でした。郡山を歩くと、そのことが町名の形で残っているのがわかります。

  • URLをコピーしました!
目次