八坂神社は京都市東山区にある神社で、明治までは祇園社、祇園感神院と呼ばれていました。祀られているのは素戔嗚尊で、中世には牛頭天王(ごずてんのう)と同じ神とされ、疫病を防ぐ神として信仰を集めます。祇園祭はこの社の祭礼です。戦国武将がこの社の札を配ったのは、疫病除けの守りとして当時もっとも通りがよかったからでした。

四条通の突き当たりに立つ西楼門。左右に狛犬が構え、石段の上に朱塗りの門が載ります。
祇園社と牛頭天王 ── 疫病を防ぐ神
中世のこの社の主は牛頭天王でした。疫病をもたらす荒ぶる神であり、同時に、丁重に祀れば疫病から守ってくれる神でもあります。荒れる力を持つ神を敬って鎮める。日本の神まつりによくある考え方です。
牛頭天王には蘇民将来(そみんしょうらい)の説話がついています。旅の神を親切に泊めた蘇民将来の家だけが、疫病を免れたという話です。そこから「蘇民将来子孫也」と書いた護符が生まれました。祇園社の札とは、この系統の守りを指します。
明治の神仏分離で牛頭天王は表から外れ、素戔嗚尊を祀る八坂神社となりました。名前は変わりましたが、疫病除けという性格は変わっていません。
神と仏を切り分けない考え方は、この時代ごく普通のものでした。興福寺と春日大社が一体で大和を動かしていたのと同じで、祇園社も延暦寺の末寺という位置づけを持ち、社でありながら感神院という寺号を名乗っています。
祇園祭は、もともと疫病を鎮める行事だった
貞観十一年(八六九)、都で疫病が流行したとき、神泉苑に六十六本の鉾を立てて祇園の神を祀りました。六十六は当時の国の数です。これが祇園御霊会、のちの祇園祭のはじまりと伝えられます。
華やかな山鉾巡行の原型は、疫病を鉾に集めて送り出す祭でした。応仁の乱で三十三年ものあいだ途絶えますが、町衆の手で再興されます。公家でも武家でもなく、町の側がこの祭を支え続けたことが、のちの京都の性格を決めました。
京都の寺社が乱世をどう生き延びたかは金閣寺・銀閣寺・清水寺と戦国時代にまとめています。
武将たちはなぜ、この社を大事にしたのか
戦国の軍にとって、いちばん怖い敵は相手の兵ではありません。疫病です。人が密集し、水が悪く、傷が膿む。陣中で病が広がれば、戦う前に軍が崩れます。
だから疫病除けの神は、武将にとって実用の神でした。織田信長も豊臣秀吉も、この社に社領を寄進しています。秀吉は京都で御所の修理や寺社の保護に力を入れましたが、祇園社もその対象です。
祇園社の札を人に贈るという行為は、健康を願うという意味に加えて、自分がこの神とつながっていると示す意味も持ちました。茶々が秀吉から贈り物を重ねられて断る場面が語られますが、札を受け取るかどうかは、相手の守りを受け入れるかどうかという話でもあります。
御霊信仰 ── 恐れる相手を祀るという考え方
疫病や天災が続くと、都では「恨みを残して死んだ者の祟りだ」と受け取られました。そこでその霊を神として祀り、鎮める。これを御霊信仰といいます。
祇園御霊会もこの流れのなかにあります。荒ぶる力を持つものを排除するのではなく、位を与えて祀り上げ、味方に変える。牛頭天王が疫病をもたらす神であり、同時に疫病から守る神でもあるのは、この考え方の典型です。
村が神前で誓いを立てて自分たちを縛ったのも、根は同じです。神は遠くで見守るものではなく、力を持ってこちらに関わってくるもの。だから仏罰を持ち出せば交渉が有利になるという計算も成り立ちました。
山鉾は、町が持ち寄ったもの
祇園祭の山鉾は、神社が用意したものではありません。それぞれの町が自前で持ち、維持してきました。だから山鉾ごとに町の名がつき、飾りの意匠も町ごとに違います。
応仁の乱で祭が三十三年途絶えたあと、再興を動かしたのも町衆です。京都の寺社が乱世をどう生き延びたかを見ると、公家や武家の力が落ちた分だけ、町の側が前に出てきたことがわかります。
秀長が郡山の城下で町に自治を認めたのと、京の町衆が祭を支えたのは、別の場所で起きた同じ現象です。町が自分たちで回す力を持っていた時代でした。
よくある疑問
- 祇園さんと呼ばれるのはなぜ? … 明治まで祇園社と呼ばれていたためです。門前の町が祇園と呼ばれるようになったのも、この社の名が先です
- 何の神様? … 素戔嗚尊。中世には牛頭天王と同じ神とされ、疫病除けの信仰を集めました
- 蘇民将来とは? … 旅の神を泊めて疫病を免れたという説話の人物。「蘇民将来子孫也」の護符がここから出ています
- 拝観料は? … 境内は無料です。夜間も通り抜けられます
- 祇園祭はいつ? … 七月のひと月をかけて行われます。山鉾巡行はその中心の行事です
四条通の突き当たりという立地そのものが、この社と町の関係を示しています。町の端ではなく、町の行き着く先に社がある。春日大社が奈良の町から参道をたどった奥にあるのとは、置かれ方が違います。
西楼門と本殿
四条通の突き当たりに立つ朱塗りの門が西楼門です。明応六年(一四九七)の再建で、応仁の乱の直後にあたります。町が焼けたあと、まずこの門が建て直されたことになります。
本殿は承応三年(一六五四)、徳川家綱による再建で、国宝です。祇園造と呼ばれる形式で、本殿と拝殿がひとつの大屋根に収まっています。社殿の下に池があり、そこに龍が棲むという言い伝えが残ります。
境内には美御前社、疫神社など多くの摂社末社があります。疫神社は蘇民将来を祀る社で、祇園祭の最後に夏越祭が行われる場所です。
戦火のあと、まず門から建て直す。この順序は京都の寺社に共通します。東大寺で鎌倉再建期の南大門だけが残ったのと同じで、門は寺社の顔だからです。
なぜ「祇園」という名なのか
祇園は、もとは天竺の祇園精舎に由来する言葉です。牛頭天王が祇園精舎の守護神とされたため、この神を祀る社が祇園社と呼ばれ、門前の町が祇園と呼ばれるようになりました。
つまり地名のほうが後から生まれています。八坂という名も、この一帯の古い地名である八坂郷によるものです。社の名が町の名になり、町の名が社の名に戻った。門前町というものの成り立ちが、名前の移り変わりにそのまま出ています。
秀長が郡山の城下に業種ごとの町をつくったのは、これとは逆の順序です。あちらは領主が先に町割りを引きました。門前から育った町と、城下として設計された町の違いは、歩くと足でわかります。
見学順 ── 西楼門から疫神社まで
- 西楼門 … 四条通の突き当たり。石段の下から見上げるのが定番です
- 本殿 … 国宝。本殿と拝殿がひとつの屋根に収まる祇園造を、横から見ると構造がわかります
- 美御前社 … 本殿の東側。社前に湧く美容水で知られます
- 疫神社 … 蘇民将来を祀る社。祇園祭の最後を締める夏越祭の舞台です
- 南楼門・石鳥居 … 本来の正面はこちら。下河原通へ抜けられます
- 円山公園 … 東へ抜けるとすぐ。坂を上れば高台寺、清水寺方面です
観光では西楼門から入る人がほとんどですが、南楼門が本来の表参道です。一度そちらから入り直してみると、社の向きが腑に落ちます。参道の向きを意識して歩くという点では、春日大社の一之鳥居からの道も同じ楽しみ方ができます。
拝観と所要時間
- 拝観料 … 境内は無料で、夜間も通り抜けられます
- 所要時間 … 本殿と主な摂社で30分ほど。円山公園まで含めると1時間
- アクセス … 京阪祇園四条駅から徒歩5分、四条通をまっすぐ東へ
- 混雑 … 七月の祇園祭と正月は身動きが取りにくくなります
- まわり … 東は円山公園・知恩院、南は建仁寺、坂を上れば清水寺
祇園の町の成り立ちそのものが、この社の門前町です。四条通を歩いて門まで来ると、その配置がよくわかります。
京都の社寺をまとめて回るなら金閣寺・銀閣寺・清水寺と戦国時代も参考にしてください。
まとめ
- 八坂神社は明治まで祇園社・祇園感神院と呼ばれ、牛頭天王を祀っていました
- 牛頭天王は疫病をもたらし、また疫病から守る神で、蘇民将来の護符がその系統です
- 祇園祭は貞観十一年の疫病流行に際しての祇園御霊会が起源とされます
- 応仁の乱で三十三年途絶えた祭を、町衆の手で再興しました
- 信長も秀吉も社領を寄進しており、祇園社の札は疫病除けの守りとして重んじられました
華やかな祭の裏に、疫病への恐れがあります。札を配る、受け取る、断る。そのやりとりの重さは、この背景を知ると変わって見えてきます。
