- 天正十三年(一五八五)の四国攻めは、六月に始まり八月には決着している
- 総大将は羽柴秀長。秀吉自身は海を渡っていない
- 軍は阿波・讃岐・伊予の三方面から入り、総勢は十万前後と伝わる
- 長宗我部元親は降伏し、土佐一国のみを安堵された
- 「姫若子」「鬼若子」は、この戦いより二十五年前の初陣にまつわる呼び名

阿波の一宮城に残る石垣。四国攻めで秀長軍に囲まれた城で、青みを帯びた石が積まれている。
この回で実際に起きたこと
天正十三年(一五八五)の夏、羽柴秀吉は四国へ軍を出しました。前年まで、長宗我部元親は四国のほぼ全域を勢力下に置いています。秀吉は元親に対し、土佐と伊予の二国のみを認めるという条件を示しましたが、元親はこれを受け入れませんでした。
出陣は六月。軍は阿波・讃岐・伊予の三方面から渡り、阿波では海ぞいの城から順に落としていきます。八月に入って元親は降伏し、土佐一国のみを安堵されました。戦いが始まってから決着まで、二か月ほどです。
同じ年の七月、秀吉は関白に任じられています。四国攻めは、秀吉が関白という肩書きを得た直後の戦いでもありました。
補助線①:なぜ秀吉自身は海を渡らなかったのか
この戦いで、秀吉は大坂を離れていません。総大将を任されたのは弟の秀長でした。十万という大軍の指揮を、身内に丸ごと預けたことになります。
理由として伝えられるのは、秀吉が病を得ていたということです。ただし、それだけで説明しきれるものでもありません。紀州も越中もこの年に片づけており、天下の仕置きを進める立場としては、大坂を空けにくい事情もありました。秀長が総大将に選ばれた理由については、別の記事でくわしく取りあげています。
補助線②:十万はどこから入ったのか
軍は三つに分かれました。阿波へは秀長と秀次、讃岐へは宇喜多秀家と黒田官兵衛ら、伊予へは毛利輝元の指揮のもと小早川隆景・吉川元長が入ります。四国を三方から同時に押さえる形です。
この配置には意味があります。長宗我部の軍は四国全体に散らばっており、三方から同時に来られると、兵をどこにも集められません。そして海を渡る以上、船をどれだけ用意できるかが前提になります。元親が海で秀吉を止められなかった理由は、この戦いの結果を先に決めていた部分でもあります。
補助線③:一宮城で何が起きたか
阿波方面の主戦場となったのが一宮城です。徳島平野を見おろす山城で、長宗我部方の江村親俊が守っていました。秀長の軍はこの城を囲み、周囲の城を落としながら圧力をかけます。城は持ちこたえられず、八月に開城しました。
一宮城には今も石垣が残っています。青みを帯びた石を使った野面積みで、四国の山城としては早い時期の石垣です。城を歩くと、堀切と竪堀がいくつも刻まれており、土と石の両方で守っていたことがわかります。一宮城は、四国攻めの現場をいちばん具体的に残している場所です。
元親自身は、阿波と土佐の境に近い白地城に本陣を置いていました。ここは攻められていません。阿波の城が次々に落ち、讃岐と伊予でも同じことが起きている——その状況が伝わった時点で、戦いの帰趨は決まっていました。

長宗我部氏の本拠だった岡豊城跡。石柱の立つ平場が曲輪で、ここから元親は四国へ手を広げていった。
補助線④:「姫若子」と「鬼若子」はいつの話か
この回のサブタイトルにある二つの呼び名は、四国攻めのときのものではありません。二十五年ほどさかのぼる、元親の初陣にまつわる話です。
若いころの元親は色白で物静かで、家中から姫若子と呼ばれていたと伝わります。初陣は永禄三年(一五六〇)の長浜の戦い。二十二歳という、当時としては遅い初陣でした。ここでの働きによって、呼び名は鬼若子に変わります。この落差そのものが語り継がれてきました。
ただし、この逸話を記すのは後世の編纂物です。細部をそのまま史実として扱うことはできません。姫若子から鬼若子への記事では、この話がどこまで確かめられるかを整理しています。
四国攻めは激戦だったのか
戦いのあと、四国はどう分けられたか
降伏した元親には土佐一国が残されました。阿波は蜂須賀家政、讃岐は仙石秀久、伊予は小早川隆景に与えられます。四国を統一していた大名が、四分の一に戻されたことになります。
この分け方には、秀吉の考えがよく出ています。長宗我部を残しつつ、周囲を自分の家臣で固める。滅ぼせば恨みが残り、放っておけば力を取り戻す。一領具足と呼ばれた土佐の兵の強さを、秀吉は知っていたはずです。
次回以降に効いてくること
四国攻めの翌年から、秀吉は九州へ向かいます。九州平定では、元親も豊臣方の一員として渡海しました。そしてその緒戦にあたる戸次川で、元親は嫡男の信親を失います。指揮をとったのは、讃岐を与えられたばかりの仙石秀久でした。
四国攻めで家を残した元親が、その二年後に跡取りを失う。長宗我部氏のその後は、この戦いから続く一本の線の上にあります。
現地はいま
元親の本拠だった岡豊城は、高知県立歴史民俗資料館に隣接する城跡です。発掘で礎石建物の跡が見つかっており、山城でありながら恒常的な建物があったことがわかっています。
阿波の一宮城は、徳島市内から車で二十分ほど。石垣と竪堀が残り、登れば徳島平野が見わたせます。伊予では、河野氏の湯築城が四国攻めで小早川隆景に囲まれ、開城しました。石垣も天守も持たない城で、道後温泉のとなりにあります。
よくある疑問
Q. 元親はなぜ二国の条件を蹴ったのか
四国を統一した直後で、条件をのめば取り分が半分以下になります。また、当時の秀吉はまだ天下人として確立しておらず、小牧・長久手の翌年でした。家康との関係次第で情勢は変わる、という読みもあったと考えられます。
Q. 秀長はこの戦いで何を得たのか
戦後、秀長は大和・和泉・紀伊を与えられ、大和郡山を居城とします。百万石の大名になるのは、この四国攻めの直後です。
Q. 十万というのは本当か
同時代の史料に幅があり、正確な数は確かめられません。ただし三方面に分けて渡海させたことは確かで、船の数から見ても大規模な動員だったことは間違いありません。
まとめ
四国攻めは、二か月で終わった戦いです。ただし、その短さこそがこの戦いの性格を示しています。十万を三方から入れ、戦う前に勝負を決める。滅ぼさずに組み入れる。秀吉が天下を仕上げていく手つきが、ここにはっきり出ています。
そして降ろされた側から見れば、四国の統一はわずか一年ほどで終わりました。土佐を統一するまでに元親が費やした年月を思うと、この二か月の重さがわかります。
- 四国平定・九州平定 ── 総大将・秀長が輝いた天下統一の総仕上げ
- 長宗我部元親はなぜ「姫若子」から「鬼若子」になったのか
- 豊臣秀長はなぜ四国攻めの総大将に選ばれたのか
- 十河存保とは何者か ── 阿波と讃岐を失った三好最後の大将
- 湯築城跡(伊予)── 石垣も天守もない河野氏の城
- 一宮城(阿波)── 秀長の本隊が取りついた山城
- 勝瑞城跡(阿波)── 土塁を持たなかった三好氏の館
- 仏殿城跡(川之江城・伊予)── 四国の十字路
- 白地城跡(阿波)── 元親が四国経営の根拠地とした城
- 来島城跡(伊予)── 潮が守った村上水軍の島

