秋田市の中心にある千秋公園は、佐竹氏が十二代にわたって居城とした久保田城の跡です。二十万石の大名の城でありながら天守がなく、石垣もほとんど積まれていません。土塁と堀だけで築かれたこの城は、常陸から遠く移されてきた名門が、新しい土地でどう身を立て直したのかを映しています。
- 常陸五十四万石から出羽へ移された佐竹義宣が築いた城
- 天守を建てず、石垣もほとんど積まない土づくりの城
- 石垣がない理由は幕府への遠慮説と、東国の築城伝統説がある
- 戊辰戦争では奥羽越列藩同盟を離れ、新政府方に付いた
久保田城とは:天守も石垣もない二十万石の城
久保田城は旭川に臨む神明山という小高い丘に築かれた平山城です。本丸を中心に二の丸、三の丸が階段状に並び、境をなすのは土塁と空堀、そして水堀でした。石が使われているのは門の基礎などごく一部だけで、城の輪郭はほとんど土でできています。天守の代わりに本丸の塁上へ御出書院と呼ばれる建物や隅櫓を置き、そこから城下を見渡しました。同じように天守も高石垣も持たなかった水戸城跡とよく似た性格の城です。

再建された本丸表門。石段の両脇はすべて土塁で、石垣は門の基礎にわずかに使われているだけ。
佐竹義宣はなぜ秋田へ移されたのか
佐竹氏は清和源氏の流れをくむ常陸の名族で、太田城跡(舞鶴城)を四百年にわたって本拠とし、のちに水戸へ移って五十四万石を数える大大名になっていました。関ヶ原の合戦のとき、当主の義宣は石田三成と親しく、上杉景勝との関係も深かったため、東軍にも西軍にもはっきりと与しないまま終戦を迎えます。この曖昧な態度が徳川家康の警戒を招き、慶長7年(1602年)に出羽への転封を命じられました。
移された先は、安東氏あらため秋田氏が湊城を本拠として治めていた土地です。義宣はまず湊城に入りましたが、平地の城は守りに向かず、五十四万石時代の家臣団をそのまま抱えた佐竹氏には狭すぎました。翌年から神明山に新しい城の普請が始まり、久保田城が生まれます。
【都内発】車 1泊2日:御三家水戸と常陸の名族!佐竹・結城の城跡と水戸城・弘道館・偕楽園・西山荘をめぐる常陸旅
姉妹サイト「日本の歴史旅ガイド」の行程。秋田へ移る前の佐竹氏の足跡をたどれます。
なぜ石垣を積まなかったのか
二十万石の城に石垣も天守もないという事実は、訪れる人をまず戸惑わせます。理由としてよく挙げられるのが、幕府に対する遠慮でした。徳川に警戒されて移されてきた身であれば、立派な城を構えて疑いを招くことは避けたい、という説明です。
城の造りと城下町、そして二十万石の中身
城の縄張は、旭川と沼地を天然の堀として使い、その内側に三の丸・二の丸・本丸を重ねる構えです。門は折れを重ねた枡形になっていて、本丸の表門から入るには長い石段を登らねばなりません。本丸には御殿が置かれ、北西の角には新兵具隅櫓が立ち、城下と海の方角を見張りました。城下町は川に沿って広がり、内町に武家、外町に商人と職人が住み分けています。
秋田藩の表高は二十万石余りですが、実際の収穫はこれを大きく上回りました。加えて院内銀山や阿仁銅山といった鉱山、そして良質な秋田杉が藩を支えます。木材は川を下り、土崎の港から船で各地へ運ばれました。転封で石高は三分の一近くに減りましたが、佐竹氏は家臣をほとんど召し放たずに連れてきたため、藩の財政は長く苦しく、鉱山と山林の経営がその不足を埋めたのです。
十二代続いた佐竹家と、幕末の選択
佐竹氏は一度の改易も転封もなく、明治まで秋田を治めました。支城として角館城の跡地には一族の芦名氏、のちに佐竹北家が置かれ、いまに残る武家屋敷の町並みはその名残です。城下には藩校明徳館が開かれ、平賀源内を招いた小田野直武ら秋田蘭画の担い手も出ています。
幕末、奥羽の諸藩が奥羽越列藩同盟を結ぶなか、秋田藩は同盟を離れて新政府方に付きました。この決断によって、南から鶴ヶ岡城の庄内藩、東から仙台城の仙台藩の攻撃を受け、領内は各地で戦場になります。城下まで敵が迫る苦しい戦いでしたが、新政府軍の増援が届いて持ちこたえ、明治を迎えました。東北の諸藩の多くが賊軍とされたなかで、秋田藩の歩みは大きく異なっています。
明治の大火と千秋公園
城の建物を失わせたのは戦火ではなく火事でした。明治十三年の大火で城内の建物の多くが焼け、残ったものも解体されていきます。焼失と取り壊しをまぬがれて今日まで建っているのは、御物頭御番所ただ一棟です。番所は門の警備にあたる者の詰所で、華やかさはありませんが、城の日常をそのまま伝える建物でもあります。
城跡は千秋公園として整備され、本丸表門と新兵具隅櫓が再建されました。隅櫓の最上部は展望台になっていて、秋田市街と男鹿の方角まで見渡せます。春は桜、初夏はツツジ、秋は紅葉と、季節ごとに表情が変わる場所です。土塁と堀の形がよく残っているので、石垣のない城がどう守りを組み立てていたかを歩きながら確かめられます。

再建された新兵具隅櫓。最上部の朱色の高欄の内側は展望台になっており、秋田の市街を一望できる。
久保田藩(秋田藩)/佐竹家20万石:佐竹義堯 戊辰戦争では新政府軍として奥羽越列藩同盟軍と徹底交戦した久保田藩
久保田城の地を治めた久保田藩が、幕末をどう生きたかをまとめています。
千秋公園(久保田城跡)・場所とアクセス
秋田県秋田市千秋公園1-39。JR秋田駅の西口から歩いて十分ほどで、市街地の真ん中にある丘がそのまま城跡です。園内は自由に歩けますが、新兵具隅櫓と佐竹史料館は有料で、日本100名城のスタンプはこの二か所に置かれています。御物頭御番所は無料で内部を見学できます。北へ足を延ばせば湊城跡や檜山城跡があり、佐竹氏が来る前の秋田を治めていた安東氏の足跡もたどれます。
