浪岡城跡(青森市):堀で仕切られた八つの区画と、浪岡御所と呼ばれた北畠氏

浪岡城:大浦為信(津軽為信)により滅ぼされた北畠顕村の居城 浪岡城

浪岡城跡は青森市の南、川にはさまれた段丘の上にあります。堀で区切られた八つの区画が並ぶ独特の造りで、堀の底には土塁が一筋残されているという、ほかの城ではあまり見ない構造をしています。ここを営んだのは北畠氏の流れをくむ一族で、浪岡御所と呼ばれました。津軽為信に攻められて滅びますが、発掘で出てきたのは武具よりも、京や中国から運ばれた器の類でした。

この記事のポイント
  • 堀で仕切られた八つの区画が並ぶ、中世の館の姿がよく残る
  • 堀の中央に土塁を残す独特の造りが見られる
  • 営んだのは公家の血を引く浪岡北畠氏、浪岡御所と呼ばれた
  • 大浦為信(津軽為信)に攻められて落城した
目次

浪岡城とは:八つの区画が並ぶ館

浪岡城跡は青森県青森市浪岡、浪岡川と正平津川にはさまれた河岸段丘に広がります。内館を中心に北館、西館、東館、猿楽館などと呼ばれる区画が堀で仕切られて並び、全体で東西およそ六百メートルにおよぶ規模です。高い山も険しい崖もなく、平らな土地を掘り分けてつくった城で、山城の多い東北のなかでは異色といえます。

堀の造りにも特徴があります。幅の広い堀の底に、細い土塁が一筋通されているのです。堀を二重に見せる効果があり、区画と区画をはっきり分ける仕切りにもなっています。歩いてみると、守りのための堀というより、敷地を整然と分ける区画線のように感じられます。

浪岡城跡の堀と土塁

草に覆われた堀と土塁。幅の広い堀の底に細い土塁が通る、この城独特の造りが見て取れる。

戦うための城だったのか

発掘調査で出土したものが、この場所の性格を教えてくれます。

▽ よく語られる話

浪岡城は北の辺境に築かれた戦国の城で、津軽為信との戦いに敗れて落ちた。

▼ 史実ではこうです

落城は事実ですが、この場所は戦うためだけの城ではありませんでした。発掘では中国から渡ってきた青磁や白磁、漆器、大量の銭貨、それに茶や香にまつわる道具が出ています。北の果てにありながら、京や大陸の文物が日常的に届いていたことになります。浪岡御所という呼び名は、公家の血を引く一族が営む政治と文化の場という、この館の性格をよく表しています。城郭というより、堀で囲まれた御所と考えるほうが実像に近いところです。

浪岡城跡の全体図

現地の案内板にある全体図。堀で仕切られた区画が横に並ぶ配置がよくわかる。

浪岡北畠氏という一族

北畠氏は村上源氏の流れをくむ公家で、南北朝の争乱では北畠親房・顕家の父子が南朝を支えました。その一族が陸奥に土着し、浪岡に館を構えたのが浪岡北畠氏です。築かれたのは十五世紀の半ばごろと考えられています。

この家は武力で周囲を切り従える大名にはなりませんでした。代わりに、家柄と朝廷とのつながりを頼りに、津軽一帯で一目置かれる立場を保ちます。安東氏や南部氏といった北の武家とのあいだで均衡を取りながら、独自の位置を占め続けました。三戸城の南部氏が勢力を広げていく時代に、浪岡は交易と文化の結節点として機能していたのです。

浪岡城跡の土塁

城跡に残る土塁。石は使われておらず、土を掘り、盛るだけで区画がつくられている。

津軽為信の台頭と落城

戦国の終わりに津軽で頭角を現したのが大浦為信、のちの津軽為信です。南部氏から自立をはかった為信は、津軽の諸勢力を次々と従えていきました。天正六年(一五七八年)、為信は浪岡城に攻め寄せます。当主の北畠顕村は抗しきれず、浪岡北畠氏はここで絶えました。

為信はその後、豊臣秀吉から津軽の支配を認められ、弘前城を本拠とする大名として独立を果たします。南部氏から見れば裏切りにあたる動きで、両家の対立は江戸時代を通じて尾を引きました。浪岡の館は使われなくなり、田畑の下に埋もれていきます。

浪岡城跡の標識

城跡を示す看板。草の斜面の上に区画が広がり、整備された園路をたどって歩ける。

浪岡城跡・場所とアクセス

青森県青森市浪岡大字浪岡字五所。JR奥羽本線の浪岡駅から歩いて二十分ほど、車なら東北自動車道の浪岡インターからすぐです。城跡は自由に歩け、近くの中世の館の資料を集めた施設で出土品を見ることができます。青森県で最初に国の史跡に指定された場所でもあり、整備が長く続けられてきました。弘前城や三戸城とあわせて回れば、北奥の勢力争いの図が見えてきます。

北奥の城
  • URLをコピーしました!
目次