【鶴ヶ岡城とは】
山形県鶴岡市馬場町にある鶴ヶ岡城(つるがおかじょう)は、庄内平野の中央に築かれた平城で、江戸時代を通じて庄内藩酒井家十四万石の居城となった城である。高くそびえる天守はもたず、本丸・二の丸・三の丸を幾重もの水堀で囲み、御殿と隅櫓で構えた実務本位の近世城郭であった。その前身は、鎌倉時代から庄内を支配した武藤氏(大宝寺氏)の大宝寺城で、慶長八年(1603)に山形城の最上義光が隠居城として大改修した際に「鶴ヶ岡城」と改められた。いまは鶴岡公園として市民に親しまれ、本丸跡には歴代藩主を祀る荘内神社が鎮座している。

鶴岡公園に建つ鶴ヶ岡城址の石碑。庄内十四万石の政庁がここにあった
【大宝寺城と武藤氏 — 庄内をめぐる争奪戦】
鶴ヶ岡城のはじまりは、鎌倉時代にさかのぼる。大泉荘の地頭として庄内に入った武藤氏は、やがて大宝寺氏を名乗り、この地に大宝寺城を構えて庄内一円に勢力を広げた。しかし戦国の世に入ると、庄内は出羽の要衝として周囲の大名に狙われる土地となる。天文元年(1532)、大宝寺城は砂越氏との抗争のなかで兵火に焼かれ、武藤氏は北方の尾浦城へ本拠を移した。以後、大宝寺城は庄内支配の拠点のひとつとして残るものの、かつての中心の座を失っていく。
武藤氏の血筋も安泰ではなかった。「悪屋形」と恐れられた武藤義氏は天正十一年(1583)に家臣の謀反で自害し、一族は越後の上杉氏を頼るようになる。天正十六年(1588)、上杉方の猛将・本庄繁長が庄内へ攻め入り、十五里ヶ原の戦いで最上勢を撃破。庄内は上杉領となった。豊臣秀吉の奥州仕置と太閤検地を経て、この地は上杉家の直轄地として組み込まれていく。

城内の案内板「鶴ヶ岡城のうつりかわり」。大宝寺城から鶴ヶ岡城への変遷と、幾重もの堀に囲まれた復元図が描かれる
【最上義光の手で「鶴ヶ岡」へ】
庄内の帰属を決めたのは、慶長五年(1600)の関ヶ原にともなう慶長出羽合戦だった。上杉家の執政・直江兼続が長谷堂城を攻めるあいだ、最上義光は反撃に転じ、戦後には庄内三郡を手に入れて五十七万石の大大名となる。義光は慶長八年(1603)に大宝寺城を修築して隠居城とし、めでたい鶴の字をとって「鶴ヶ岡城」と改めた。城下の町割りもこのときに大きく進み、のちの城下町の骨格がつくられている。
もっとも最上家の栄華は長く続かなかった。義光の死後、後継をめぐる家中の内紛が収まらず、元和八年(1622)に最上氏は改易となる。寒河江城をはじめ、家臣が守った出羽の城の多くもこのとき役目を終えた。
【酒井家十四万石の城下町】
最上氏に代わって庄内へ入ったのが、信濃松代から移った酒井忠勝である。徳川四天王・酒井忠次の孫にあたる譜代の名門で、庄内十三万八千石(のち十四万石と称される)を与えられた。以後、酒井家は幕末まで十二代・約二百五十年にわたってこの地を治める。国替えの多い江戸時代にあって、これほど長く同じ家が同じ城に居続けた例は多くない。
忠勝と続く藩主たちは、鶴ヶ岡城を近世城郭として整え直した。本丸には藩主の住まいと政庁を兼ねた御殿が置かれ、三方を二の丸・三の丸が囲み、その外周を堀と土塁が幾重にも巡る。天守は建てられず、本丸の隅櫓が城の象徴となった。派手さよりも実用を選んだ姿は、内陸の米沢城とも通じるところがある。

本丸御殿の御玄関跡。ここが庄内藩の政庁の玄関口だった
【北前船と本間家 — 江戸中期の庄内】
庄内を語るうえで欠かせないのが、酒田の豪商・本間家である。西廻り航路が開かれると、酒田は最上川がつなぐ内陸の米を積み出す港として栄え、本間家は廻船と金融で巨富を築いた。四代・本間光丘は、飛砂に苦しむ海岸に松を植えて砂防林を育て、新田を開き、飢饉のたびに施米を行った。「本間様には及びもないが、せめてなりたや殿様に」という俗謡は、その富の大きさを今に伝えている。
藩財政が苦しくなると、酒井家は本間家の融資に頼るようになる。商人の富が藩の屋台骨を支えるという関係は、江戸中期以降の庄内を理解する鍵であり、幕末に庄内藩が最新の銃器をそろえられた背景でもある。
【天保義民 — 領民が幕府を動かした】
天保十一年(1840)、幕府は庄内・長岡・川越の三藩に領地を入れ替える「三方領知替え」を命じた。豊かな庄内を失うことは藩にとって大打撃だったが、声を上げたのは領民の方だった。年貢の軽い酒井家の統治を望む百姓たちは、江戸へ出て老中に駕籠訴を繰り返し、他藩へも訴えを広げていく。前代未聞の抵抗の末、幕命は翌年に撤回された。幕府の決定が民衆の直訴で覆った稀有な事件で、のちに「天保義民」と呼ばれる。城と領民の距離の近さを示す出来事でもあった。
【庄内藩校 致道館 — 徂徠学が人を育てた】
文化二年(1805)、九代藩主・酒井忠徳は藩風の刷新を目指して藩校「致道館」を創設した。校名は『論語』の一節に由来する。文化十三年(1816)には十代・忠器が三の丸の現在地へ移し、以後およそ七十年にわたって藩士の子弟を教えた。
致道館の学問は荻生徂徠の徂徠学を柱とし、丸暗記ではなく個々の学生が自ら考え自ら学ぶ「自学自習」を重んじたところに特色がある。ここで育った人材が、幕末の藩政と軍制改革を担っていった。現在の建物は表御門・講堂・御入間などが残り、東北地方に唯一現存する藩校建築として国の史跡に指定されている。

庄内藩校・旧致道館の表御門。東北で唯一現存する藩校の建築が城の三の丸跡に残る

館内に掲げられた「致道館」の扁額。自学自習を旨とした徂徠学の学び舎だった
【幕末 — 「最強」と呼ばれた庄内藩】
幕末、庄内藩は江戸市中取締の任にあたり、清河八郎の献策で生まれた浪士組の後身・新徴組を預かって江戸の治安を担った。慶応三年(1867)末には江戸薩摩藩邸の焼き討ちを実行し、戊辰戦争の口火を切る側に立つことになる。
翌年の戊辰戦争で、庄内藩は奥羽越列藩同盟に加わって新政府軍と戦った。本間家が差し出した十万両ともいわれる軍資金を背景に洋式の銃器をそろえ、大隊編成の実戦部隊を組織。慶応四年(1868)四月の清川口の戦いで新政府軍を退けると、そのまま北へ進撃した。七月には同盟を離れて新政府方についた新庄城を攻め落とし、八月には横手城を陥れて秋田領深くまで攻め込んでいる。とくに二番大隊を率いた酒井玄蕃(了恒)は連戦連勝の指揮ぶりから、敵味方に「鬼玄蕃」と畏怖されている。

「藩政時代をたどる」展示より、庄内藩の戊辰戦争。庄内勢はほとんど負け戦を知らなかった
戦場で敗れなかった庄内藩だが、九月に米沢・仙台が相次いで降伏すると戦略的に孤立し、ついに降伏を決断する。鶴ヶ岡城は一度も攻め落とされることなく開城した。処分は寛大なもので、その裏に西郷隆盛の意向があったと伝えられる。恩義を感じた旧藩士たちはのちに鹿児島へ西郷を訪ね、その言葉を『南洲翁遺訓』として世に送り出した。刀を捨てた士族たちは松ヶ岡の原野を開墾し、養蚕によって新しい庄内を築いていく。

清川口から横手・角館へと進んだ庄内勢の戦いを描いた絵巻。幕末の詳細は幕末歴史ガイドの現地取材記事でも紹介している
【明治の鶴ヶ岡城と荘内神社】
明治に入ると鶴ヶ岡城は解体され、堀と土塁を残して建物は失われた。明治十年(1877)、本丸跡には旧藩主酒井家の歴代を祀る荘内神社が創建され、城地は鶴岡公園として整えられていく。桜の名所として知られ、堀端を歩けば往時の縄張りがそのまま足元に残っていることに気づく。二の丸跡には大宝館や致道博物館などの文化施設が並び、城下町の記憶を伝えている。

本丸跡に鎮座する荘内神社。旧藩主・酒井家の歴代を祀る
【鶴ヶ岡城の現地写真】








【鶴ヶ岡城・場所・アクセス】
〒997-0035 山形県鶴岡市馬場町4-1
【鶴ヶ岡城地図】
