太田城(舞鶴城)とは
太田城は、常陸の名門佐竹氏が四百年以上にわたって本拠とした城である。別名を舞鶴城という。
久慈川と山田川に挟まれた台地の先端に築かれた平山城で、戦国期には佐竹義重・義宣父子がここから常陸一国を制した。だが水戸城へ本拠が移り、さらに佐竹氏が秋田へ去ると、城は廃された。

「舞鶴城趾」の石碑。城跡は現在、常陸太田市立太田小学校などの敷地となっている(茨城県常陸太田市中城町)
小野崎氏から佐竹氏へ
この地に城が築かれたのは平安末期、藤原秀郷の流れをくむ小野崎氏によると伝えられる。その後、常陸北部に勢力を広げた佐竹氏が入り、以後この城が佐竹の本拠となった。
佐竹氏は清和源氏の流れをくむ名門で、源義光(新羅三郎)の孫・昌義が久慈郡佐竹郷に拠ったのが始まりとされる。鎌倉・室町・戦国と、七百年近く常陸に在り続けた家である。
佐竹義重 ─ 「鬼義重」の時代
戦国期の佐竹氏を頂点に導いたのが十八代佐竹義重である。北の伊達政宗、南の後北条氏、西の宇都宮氏という強敵に挟まれながら、常陸をまとめ上げた。その武勇から「鬼義重」「坂東太郎」と呼ばれる。
周辺の敵対勢力を次々に屈服させ、小田城の小田氏治を退け、真壁城の真壁氏幹を配下に組み込み、南奥州へも手を伸ばした。
天正十三年(1585)、伊達政宗との人取橋の戦いでは蘆名氏らと連合して政宗を追い詰めている。この城は、東国の勢力図が動くたびに震源のひとつだった。
水戸へ、そして秋田へ
子の義宣の代に転機が来る。天正十八年(1590)、豊臣秀吉の小田原征伐に参陣した義宣は常陸五十四万石を安堵され、その勢いで水戸城の江戸氏を追った。そして翌天正十九年、本拠を太田城から水戸城へ移す。
四百年以上続いた佐竹の本城が、ここで役目を終えた。太田城は支城として残される。
だが関ヶ原で義宣は去就を明らかにせず、西軍寄りと見なされた。慶長七年(1602)、佐竹氏は出羽秋田二十万石へ移される。五十四万石からの大減封である。太田城もこのとき廃城となった。
この移封が、東国の家をまるごと入れ替えた。真壁氏は佐竹に従って角館へ移り、入れ替わりに角館の戸沢氏が常陸松岡を経て新庄へ流れていく。大田原城の大田原氏のように早く豊臣・徳川へ付いた家が残り、判断を保留した佐竹は遠国へ送られた。
なぜ佐竹は水戸へ移ったのか
四百年の本城を捨てる決断には理由がある。
太田城のある常陸太田は、久慈川流域の北部にあたる。佐竹氏が北の陸奥方面と向き合っていた時代には、ここが最前線であり中心だった。だが天正十八年(1590)に常陸一国を安堵されると、事情が変わる。領国全体を治めるには、太田は北に偏りすぎていた。
水戸は那珂川と千波湖に守られた台地にあり、常陸のほぼ中央に位置する。江戸氏を追ってこの城を得た義宣が、翌年すぐ本拠を移したのは自然な判断だった。小谷城を捨てた秀吉が長浜城を築き、皆川城の広照が栃木城へ降りたのと同じ、戦うための城から治めるための城へという移行である。
皮肉なのは、その新しい本拠に佐竹がいられたのが十年ほどだったことだ。移った先の水戸城は、そのまま徳川御三家の居城になる。佐竹が常陸の中心として選んだ場所の正しさを、証明したのは徳川のほうだった。
学校になった城跡
現在、太田城跡は常陸太田市立太田小学校などの敷地になっている。城の遺構はほとんど残らず、校内に「舞鶴城趾」の石碑が立つのみである。
台地の先端という地形は今も変わらず、周囲を歩けば城が置かれた理由は分かる。水戸城の城域に水戸一高などが建っているのと同じく、佐竹の本城もまた、いまは子どもたちの通う場所になっている。
太田城の現地写真





太田城・場所・アクセス
〒313-0013 茨城県常陸太田市中城町
JR水郡線「常陸太田駅」から徒歩約20分。常磐自動車道 那珂インターから車で約20分。城跡は太田小学校などの敷地のため、見学は外周からとなる。
近くには佐竹氏の菩提寺や、水戸黄門ゆかりの西山荘もある。あわせて訪ねたい。
