【新庄城(沼田城)とは】
山形県新庄市堀端町にある新庄城は、最上川の上流・最上盆地に築かれた平城で、「沼田城」の別名をもつ。寛永二年(1625)に新庄藩初代藩主・戸沢政盛が築き、以後明治まで戸沢氏十一代がこの城を拠点に六万石(のち六万八千二百石)の藩政をしいた。本丸の中央に三層の天守櫓、三隅に隅櫓を構え、表御門と裏御門を備えた堂々たる近世城郭だったが、慶応四年(1868)の戊辰戦争で庄内勢に攻められ、城下もろとも焼け落ちた。いまは本丸跡が最上公園として整備され、戸澤神社をはじめとする社が鎮座している。

城内の案内板に掲げられた「新庄城絵図」。郷土画家・尾形芦香が古老の証言をもとに描いた、幕末の新庄城の姿
【戦国の戸沢氏 — 角館から始まった一族】
新庄城を築いた戸沢氏は、もともとこの地の領主ではない。出羽北部の仙北地方を本拠とし、角館城を拠点に勢力を伸ばした一族である。乱世のなかで家の土台を固めたのが戸沢道盛で、その子戸沢盛安は「夜叉九郎」と恐れられた戦上手として知られる。盛安は天正十八年(1590)の小田原征伐にいち早く参陣して豊臣秀吉の覚えをめでたくしたが、陣中で病に倒れ、二十四歳の若さで世を去った。
一方、当時の新庄一帯は山形城の最上義光の版図に組み込まれつつあった。最上氏は清水城・鮭延城などを押さえて最上郡を支配し、庄内から仙北へ通じるこの盆地を重要な結節点としていた。関ヶ原の合戦のあと、戸沢氏は常陸松岡四万石へ移されており、両家がこの地で入れ替わるのは、もう少し先のことになる。

本丸跡に立つ新庄藩初代藩主・戸沢政盛公の像。盛安の子として生まれ、新庄六万石の礎を築いた
【元和八年の入部と築城】
転機は元和八年(1622)に訪れる。最上氏がお家騒動によって改易されると、その旧領は細かく分割され、戸沢政盛が最上郡一円と村山郡の一部、六万石を与えられて新庄へ入った。寒河江城など最上一族の城が役目を終えたのもこのときである。
政盛は当初、鮭延城に入ったが、街道と最上川舟運を押さえるにはこの盆地の中央が良いと判断し、新たな城の普請にかかった。寛永二年(1625)に完成した新庄城は、本丸を堀と土居で囲み、東側に二の丸・三の丸を展開する平城で、二の丸には役所と米倉、三の丸には侍屋敷が並んだ。城下には町人町も整えられ、最上地方の政治と経済の中心が生まれた。

本丸の正面入口、表御門跡に残る石垣。ここから城内へと坂道が続いていた
【江戸中期の新庄藩 — 火災、飢饉、そして祭り】
築城からわずか十一年後の寛永十三年(1636)、城は火災に見舞われ、本丸の天守櫓が焼け落ちた。財政の乏しい小藩にとって三層の櫓を建て直す余力はなく、以後、天守櫓が再建されることはなかった。絵図に描かれた壮麗な姿は、創建からしばらくの間だけの光景だったことになる。
山あいの新庄藩は冷害と飢饉にたびたび苦しめられた。宝暦年間の大凶作で領内が疲弊したのち、五代藩主・戸沢正諶が領民の士気を取り戻すために神輿行列を出したのが、いまに続く「新庄まつり」の始まりと伝えられる。豪華な山車が城下を練り歩くこの祭りは、二〇一六年にユネスコ無形文化遺産に登録された。藩の苦難から生まれた行事が、三百年近く受け継がれている。
【戊辰戦争 — 一日で焼け落ちた城】
慶応四年(1868)、新庄藩は奥羽越列藩同盟に加わったものの、まもなく同盟を離れて新政府方につく。これに対し、同盟の主力であった庄内藩が最上へ兵を向けた。七月十四日、庄内勢の攻撃を受けた新庄城は黒煙をあげて焼け落ち、城下の町並みまで灰燼に帰した。藩主・戸沢正実は久保田(秋田)へ落ち延びている。二百四十三年続いた戸沢氏の居城は、こうして最期を迎えた。
攻めた側の庄内藩は、本間家の資金で最新の銃器をそろえた当時屈指の精鋭だった。新庄城の落城は、その進撃の一場面でもある。庄内側から見た戦いの経緯は鶴ヶ岡城の記事でも触れている。

本丸跡に建つ「新庄城址」の標柱。奥に見えるのは戸沢氏を祀る戸澤神社
【いまの新庄城跡 — 最上公園】
明治に入って新庄城は廃され、跡地は新庄学校や勧業試験場などに使われた。本丸跡には初代藩主を祀る戸澤神社のほか、天満神社・護国神社が並び、堀と土塁がよく残る城跡は最上公園として親しまれている。二の丸跡には市民文化会館とふるさと歴史センターが建ち、新庄まつりの山車や地域の民俗資料を見ることができる。本丸へ渡る石橋の上に立てば、堀に囲まれた城の輪郭がそのまま足元に残っていることがわかる。桜の名所としても知られ、春には土塁の上まで花が続く。
【新庄城・場所・アクセス】
〒996-0085 山形県新庄市堀端町
【新庄城地図】

