【天童城(天童古城・舞鶴山城)とは】
山形県天童市の舞鶴山に築かれた天童城は、中世の典型的な山城で、「天童古城」「舞鶴山城」とも呼ばれる。足利一門・奥州斯波兼頼の孫とされる天童頼直が開いた城で、以後およそ二百九年、天童氏十代がここを本拠として最上地方に勢力を張った。天正十二年(1584)に最上義光の攻撃で落城し、城は役目を終える。いまは山全体が天童公園として整備され、曲輪や井戸の跡が残るほか、春には約二千本の桜のもとで「人間将棋」が行われる、将棋駒のまちの象徴的な場所になっている。

舞鶴山に建つ天童古城記念碑。天童氏十代・二百九年の歩みが刻まれている
【天童氏 — 斯波兼頼の血を引く一族】
南北朝の時代、斯波兼頼の孫といわれる頼直がこの地の成生庄に入り、はじめは里見を名乗った。やがて天授元年・永和元年(1375)に天童氏を称し、応永十七年(1410)に天童山城へ移る。成生楯を後にしてこの山に拠を構えたのが、天童城のはじまりである。
以後、二代頼泰から十代頼久(頼澄)まで、天童氏は二百九年にわたってこの山城に居城した。山内には曲輪や井戸などの遺構がいまも残り、天童氏の守護神である喜太郎稲荷神社や菩提寺の仏向寺など、ゆかりの社寺が城下に点在している。

山頂近くの展望台。ここに立つと、この山が城として選ばれた理由がよくわかる
【天童合戦 — 難攻不落の城が落ちた日】
戦国の最上地方は、山形の最上義光が統一へと動き出した時代だった。天童氏は周辺の国人衆と結んで「天童八楯」と呼ばれる同盟をつくり、義光に抗した。だが義光は力押しではなく、縁組と離間の策で同盟を内側から崩していく。
そして天正十二年(1584)十月、難攻不落とうたわれた天童古城はついに落城した。城を失った天童氏は陸奥仙台の伊達家臣・国分氏を頼って多賀城の地へ移り、のちに伊達政宗に仕えて準一家として厚遇される。多賀城市域で最大の家臣となり、その血筋は今日まで続いている。城を失っても家が絶えなかったという点で、戦国の敗者としてはむしろ幸運な部類に入るだろう。義光の側から見た同じ戦いは山形城の記事でも触れている。
【織田家の天童藩 — 将棋駒のはじまり】
江戸時代の天童は、意外な家が治めた。織田信長の次男・信雄の系譜を引く織田家である。天保元年(1830)、織田信美が高畠から陣屋を天童へ移し、二万石の天童藩が成立した。とはいえ小藩の財政は苦しく、下級藩士の暮らしは困窮していた。
その窮状を救ったのが、藩の中老・吉田大八守隆である。大八は藩士に将棋駒づくりの内職を勧めた。武士が手内職をすることへの反対の声に対し、「将棋は兵法戦術に通じ、武士の面目を傷つけるものではない」と説いたと伝えられる。これが今日の天童将棋駒の由来であり、全国の将棋駒の大半を生む産地の出発点となった。

「王将」の碑。藩士の内職から始まった駒づくりが、いまや町の名前そのものになっている
【吉田大八の悲劇 — 戊辰の天童】
慶応四年(1868)三月、天童藩主は奥羽鎮撫使の先導という重い役目を命じられ、大八がその先導名代を務めた。新政府方についた天童藩は、奥羽越列藩同盟の主力である庄内藩の反撃を受け、城下は焼き払われる。同盟からは大八の身柄引き渡しを迫られ、大八は米沢藩に捕らえられた。
六月十八日、天童小路の観月庵で切腹。享年三十七。藩と町を守るために自らの命で決着をつけた形だった。天保三年(1832)に江戸の天童藩邸で生まれ、十五歳で父の跡を継ぎ、大目付・武具奉行・養正館督学を経て中老に昇った人である。藩士に駒を彫らせた男が、戊辰の政治の渦に呑まれて死んだ。この町の歴史を語るとき、彼を抜かすことはできない。攻めた側の事情は鶴ヶ岡城の記事に詳しい。

舞鶴山に立つ吉田大八の像。天童将棋駒の生みの親であり、戊辰の悲劇の人でもある
【人間将棋と桜の山】
いまの舞鶴山は、春になると装いを変える。天童桜まつりは、昭和二十九年に一町六カ村が合併して新天童町が生まれたのを祝い、翌昭和三十年に始まった。その一環として昭和三十一年に「将棋野試合」の名で始まったのが、のちの「人間将棋」である。
約二千本の桜に覆われた山頂広場に、東西十六・八七メートル、南北十四・一七メートルの巨大な将棋盤が現れる。甲冑や着物姿の武者・腰元を駒に見立て、プロ棋士や女流棋士が指し手を務める。桜の下を人間の駒が行き交うさまは、まさに時代絵巻だ。城が落ちて四百年あまり、同じ山が今度は将棋の舞台になっているというのが、この土地のおもしろさである。

山頂広場の案内板。人間将棋は昭和三十一年に「将棋野試合」として始まった
【天童城・場所・アクセス】
山形県天童市天童字城山(天童公園・舞鶴山)
【天童城地図】
