福井城跡:結城秀康が北ノ庄城の上に築いた越前六十八万石の城と、天守台の「福の井」

福井城の石垣と内堀

※この記事の写真は筆者が現地で撮影したものです。

福井城は、徳川家康の次男・結城秀康が関ヶ原の戦いのあとに築いた、越前六十八万石の城です。柴田勝家の北ノ庄城のすぐ隣に築かれ、いまは本丸の跡に福井県庁が建っています。天守は江戸時代の前半に焼けて再建されず、残るのは石垣と堀、そして天守台の上の井戸「福の井」です。

この記事では、福井城がどのように築かれ、なぜ「北ノ庄」が「福井」という名に変わったのか、そして石垣に残る歴史を現地の写真とともにたどります。

この記事のポイント
  • 慶長六年(1601)、関ヶ原の功で越前六十八万石を与えられた結城秀康が築城を始め、約六年かけて完成した
  • 城は柴田勝家の北ノ庄城の跡に重なるように築かれ、北ノ庄城の石垣は取り除かれた
  • 寛永元年(1624)、三代藩主・松平忠昌が「北ノ庄」を「福居」と改め、のちに「福井」となった。天守台の井戸「福の井」が名の由来とする説もある
  • 天守は寛文九年(1669)に焼けて再建されなかった。いまは本丸跡に県庁が建ち、石垣と堀、御廊下橋・山里口御門(復元)が見られる
目次

福井城とは:本丸に県庁が建つ城

福井城は、JR福井駅から歩いて数分のところにあります。本丸をぐるりと囲む石垣と内堀がよく残り、その内側に福井県庁や県議会が建っています。県の中心の役所が、そのまま城の本丸に置かれているのです。

福井城の石垣と内堀

本丸を囲む石垣と内堀。堀の向こうに県庁の建物が見える(筆者撮影)

福井城址のご案内(福井城本丸復元図)

本丸の石垣の前に立つ「福井城址のご案内」。本丸の復元図が描かれている(筆者撮影)

結城秀康が築いた越前六十八万石の城

福井城を築いたのは、徳川家康の次男・結城秀康です。秀康は関ヶ原の戦いで、宇都宮にとどまって上杉景勝を抑える役を果たし、その功で越前六十八万石を与えられました。慶長六年(1601)に築城を始め、全国の大名に工事を分担させる形で、約六年かけて城を完成させたとされます。本丸には四重五階の天守が建てられました。

福井城跡の結城秀康公像

福井城跡に立つ結城秀康公の像(筆者撮影)

秀康は家康の次男でありながら、豊臣秀吉の養子、そして結城家の養子と、二度にわたって家の外に出された人物です。その生涯は於義丸(結城秀康)とはで書いています。

北ノ庄城の上に重なる城

福井城のある場所には、かつて柴田勝家の北ノ庄城がありました。天正十一年(1583)、勝家は賤ヶ岳の戦いに敗れ、お市の方とともに北ノ庄城で自害します。秀康が福井城を築いたとき、北ノ庄城の跡はその城域に取り込まれました。

福井城のすぐ南にある柴田神社には、北ノ庄城の石垣の根石が展示されています。案内板によれば、石垣は本来は高く積まれていたものの、結城秀康の福井城築城の際に取り除かれ、根石だけが残ったと考えられています。北ノ庄城の天守をめぐる謎は北ノ庄城の天守は本当に九層だったのかで、柴田神社は柴田神社(北の庄城址)で書いています。

「北ノ庄」から「福井」へ:天守台の井戸「福の井」

城の名は、はじめは北ノ庄のままでした。寛永元年(1624)、三代藩主の松平忠昌は、「北」の字が「敗北」に通じるとして、城下の名を「福居」と改めます。これがのちに「福井」となりました。

福井城天守台の石垣

本丸に残る天守台の石垣(筆者撮影)

天守台の上には、「福の井」と呼ばれる井戸が残っています。天守台の案内板によれば、福の井は福井城の築城当時からあった井戸と考えられ、福井藩の正史『越前世譜』には、この井戸が「福井」の名の由来になったという説も記されています。昭和二十三年(1948)の福井地震で井戸の形が大きく崩れたため、井戸の石積みや井戸枠が震災前の大きさに復元され、平成二十九年(2017)に完成しました。

「天守閣跡 福の井」の碑

天守台の上に立つ「天守閣跡 福の井」の碑(筆者撮影)

福井城天守台「福の井」の案内板

天守台の「福の井」の案内板。名の由来や、福井地震後の再整備について書かれている(筆者撮影)

焼けた天守と、再建されなかった理由

四重五階の天守は、寛文九年(1669)の火災で焼けてしまいます。しかし幕府から再建の許しは下りず、本丸の南西の隅にあった巽櫓を三重に改めて、天守の代わりとしました。天守の石垣だけが、いまも本丸の隅に残っています。

福井城の天守台

天守台の石垣。この上に四重五階の天守が建っていた(筆者撮影)

秀康の跡を継いだ越前松平家は、その後、二代忠直が改易され、忠昌の代から福井藩として幕末まで続きました。家の歩みは越前松平家はなぜ二度も改易されたのかで書いています。

明治以降の福井城と、復元された門と橋

明治になると城の建物は取り壊され、外側の曲輪は売られて堀も埋められていきました。昭和二十三年(1948)の福井地震では、天守台を含む石垣が大きな被害を受けています。

近年は復元も進み、平成二十年(2008)に本丸と西三の丸を結ぶ御廊下橋、平成三十年(2018)に山里口御門が復元されました。

福井城跡の現地写真

福井城本丸の石垣と石段

本丸の石垣と石段(筆者撮影)

福井城本丸の石垣

本丸の石垣。福井周辺で採れる笏谷石が使われている(筆者撮影)

福井城の雁木(石段)

石垣の内側に設けられた雁木(石段)(筆者撮影)

福井城本丸の石垣と堀

冬の本丸の石垣と堀(筆者撮影)

福井城の石垣と堀

石垣と堀(筆者撮影)

福井城跡・場所とアクセス

JR福井駅から歩いて約五分。本丸跡は福井県庁の敷地で、石垣と堀のまわりは自由に歩けます。北ノ庄城の跡にあたる柴田神社は、城跡から南へ歩いて約十分です。二つをあわせて回ると、勝家の城から秀康の城への移り変わりがよくわかります。

【福井城跡・場所】福井県福井市大手3丁目(福井県庁)

お市の方と勝家の最期はお市の方とはで書いています。

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