※この記事の写真は筆者が現地で撮影したものです。
「三成に過ぎたるものが二つあり 島の左近と佐和山の城」。石田三成の居城として知られる佐和山城は、滋賀県彦根市の佐和山(標高約230メートル)にあった山城です。関ヶ原の戦いの三日後に落城し、そのあと井伊家が彦根城を築く際に徹底的に壊されたため、いまは石垣もほとんど残っていません。
この記事では、佐和山城がどんな城だったのか、三成がこの城で何をしたのか、そしてなぜ跡形もなく壊されたのかをたどります。
- 佐和山城は鎌倉時代の砦に始まり、六角氏・浅井氏・織田家臣が次々に城主となった、近江の東山道を押さえる要の城
- 石田三成は天正十九年(1591)に城代として入り、文禄四年(1595)に正式な城主となった。五層(三層説も)の天守があったと伝わる
- 関ヶ原の戦いの三日後、慶長五年(1600)九月十八日に落城。三成の父・正継ら一族が命を落とした
- 井伊家が彦根城へ移るときに徹底的に壊され、本丸は岩盤が出るまで削られた。いま残るのは土塁や曲輪の跡が中心
佐和山城とは:東山道を見下ろす山の城
佐和山城は、琵琶湖の東岸、いまのJR彦根駅の北東にそびえる佐和山に築かれた山城です。山のすぐ下を、京と東国を結ぶ東山道(のちの中山道)が通っていました。近江の北と南をつなぐ道を見下ろす位置にあり、戦国時代には、この城を持つ者が近江を押さえるといわれるほどの要地でした。

山上の「武士の夢 佐和山」の看板。木々の向こうに琵琶湖側の平野が広がる(筆者撮影)
城の始まりは古く、鎌倉時代に近江守護・佐々木氏の一族が築いた砦に始まるとされます。戦国時代には南近江の六角氏の城となり、のちに北近江の浅井氏の勢力下に入って、小谷城の支城として浅井家の重臣・磯野員昌が守りました。
織田家の城から、秀吉の家臣の城へ
元亀元年(1570)、浅井長政が織田信長に背くと、佐和山城は信長の攻撃を受けます。城主の磯野員昌はおよそ八か月にわたって籠城しましたが、元亀二年(1571)二月に降伏しました。浅井家の城がどう戦ったかは小谷城跡でも書いています。
その後、佐和山城には信長の重臣・丹羽長秀が入り、北近江と若狭を治める拠点としました。本能寺の変のあとの清須会議で堀秀政に与えられ、天正十三年(1585)には堀尾吉晴が城主となります。城主がめまぐるしく替わったこと自体が、この城の重要さを物語っています。
石田三成の城に:「過ぎたるもの」と呼ばれた城
石田三成が佐和山城に入ったのは、天正十九年(1591)四月です。はじめは城代・代官としての入城で、文禄四年(1595)七月に北近江の四郡を与えられて正式な城主となりました。三成は荒れていた城を大きく改修し、山頂に五層(三層とする説もあります)の天守を持つ城に造り替えたと伝わります。

山上に立つ「佐和山城址」の碑。紅葉の季節に訪れた(筆者撮影)
「三成に過ぎたるものが二つあり 島の左近と佐和山の城」という言葉は、三成には不釣り合いなほど立派なものとして、家臣の島左近とこの城が挙げられたものです。ただし三成は伏見にいることが多く、城の実際の管理は父の石田正継が担っていました。城内のつくりは質素で、居間は板張り、壁は荒壁のままだったとも伝わります。島左近については島左近は秀長の家臣だったのかで、三成その人については石田三成:なぜ嫌われ、なぜ敗れたのかで書いています。
関ヶ原の三日後、城は落ちた
慶長五年(1600)九月十五日、関ヶ原の戦いで西軍が敗れると、徳川家康は小早川秀秋らを先鋒として佐和山城に向かわせました。城の兵の多くは関ヶ原に出ており、守っていたのは三成の父・正継と兄・正澄らおよそ二千八百人でした。
九月十八日、城内の一部の兵が寝返ったこともあって、佐和山城は落城します。正継・正澄、三成の妻ら一族は戦死、あるいは自害しました。攻め入った側の記録には、城内に金銀がほとんど残っていなかったと書かれ、三成が蓄えを持たなかったことを示す話として語られています。関ヶ原の戦いそのものは関ヶ原の戦いをわかりやすく解説で書いています。
彦根城への移転と、徹底した破城
石田家が滅んだあと、この地には徳川四天王の一人・井伊直政が入りました。しかし直政は佐和山城をそのまま使わず、西に約一・六キロ離れた金亀山に新しい城を築く計画を立てます。三成の城に住み続ければ、領民が井伊家を石田家の跡継ぎのように見てしまう、と考えたためともいわれます。直政の生涯は井伊直政はなぜ「赤鬼」と呼ばれたのかで書いています。
直政は関ヶ原で受けた傷がもとで慶長七年(1602)に亡くなり、子の直継が築城を引き継ぎました。こうして生まれたのが彦根城です。彦根城の建物や石垣には、佐和山城や大津城などから運んだ材料が使われたとされます。慶長十一年(1606)ごろ、直継が彦根城に移ると、佐和山城は廃城となりました。
このとき佐和山城は徹底的に壊されました。本丸は岩盤が露出するほど削られ、石垣もほとんどが取り去られたといわれます。三成の城を、目に見える形では残さない。新しい支配者の意思がはっきり表れた破城でした。
いま残る曲輪と土塁:西の丸(塩櫓)
それでも山の上を歩くと、城の形はたどれます。山上には本丸を中心に西の丸・二の丸・三の丸があり、隣の尾根には太鼓丸・法華丸の曲輪がありました。

西の丸(塩櫓)の案内板。西の丸は本丸の北西に広がる三段の曲輪で、北西端には大きな土坑が残る(筆者撮影)
西の丸は「塩櫓」とも呼ばれ、本丸の北西に三段に広がる曲輪です。案内板によれば、この曲輪の北面と西面には土塁が巡り、水の手に向かって竪土塁が築かれていて、城の外への防御ラインになっていたと考えられています。いまも曲輪にはたくさんの瓦片が散らばり、何らかの瓦葺きの建物が建っていたと推定されています。
佐和山城跡の現地写真

登山道の入口近くにある「佐和山史跡図」。本丸や西の丸などの位置が示されている(筆者撮影)
佐和山城跡・場所とアクセス
登山道の入口は、山のふもとにある龍潭寺の門前です。龍潭寺の境内には石田三成の像も建っています。本丸跡までは山道を歩いて登ります。山頂の本丸跡からは彦根城を望むことができます。足元は土の山道なので、歩きやすい靴で訪ねてください。
【佐和山城跡・場所】滋賀県彦根市古沢町ほか(登山口は龍潭寺の門前)
あわせて、三成の城を壊して築かれた彦根城、浅井長政の小谷城跡、秀吉が初めて城主となった長浜城も訪ねると、近江の戦国史が一日でたどれます。
