二本松城(霞ヶ城):畠山氏の悲劇と丹羽氏十万石、戊辰に散った二本松少年隊の城

二本松城 三ノ丸の石垣と白壁

【二本松城(霞ヶ城)とは】

福島県二本松市にある二本松城は、「霞ヶ城(かすみがじょう)」の雅名で親しまれる名城である。中世には畠山氏(二本松氏)の居城として山上に築かれ、江戸時代には丹羽氏十万石の居城として麓に壮大な近世城郭が整えられた。日本100名城の一つに数えられ、戊辰戦争では少年たちで編成された「二本松少年隊」の悲劇の舞台としても知られる。復元された箕輪門と豪壮な石垣、そして日本さくら名所100選にも選ばれた桜が、訪れる人を迎えてくれる。

二本松城(霞ヶ城)の箕輪門と二本松少年隊の群像

復元された二本松城の箕輪門と石垣。手前は戊辰戦争で奮戦した二本松少年隊の群像

【畠山氏の悲劇——粟ノ巣の変と二本松落城】

二本松城の前身は、室町時代に奥州探題・畠山氏の一族が築いた山城である。以後、二本松を名字とした畠山氏(二本松氏)が代々この地を治めた。だが戦国末期、南奥州に急速に勢力を広げた独眼竜・伊達政宗の脅威が迫る。

天正13年(1585年)、二本松城主・畠山義継は、政宗の父・伊達輝宗を居城へ招いた席で、突如として輝宗を拉致した。追った政宗の軍勢との間で、阿武隈川のほとり粟ノ巣において悲劇が起こる。義継は輝宗を道連れに討たれ、父を失った政宗は激怒した。翌年、政宗は二本松城を猛攻し、ついに畠山氏を滅ぼした。父の死と引き換えに二本松を得た政宗にとって、この城は苦い記憶の地でもあった。

【丹羽氏十万石と近世城郭の完成】

政宗の会津没収後、二本松は蒲生・上杉・松下・加藤といった諸大名の支配を経る。そして寛永20年(1643年)、白河から丹羽光重が入封し、以後、丹羽氏十万余石が幕末まで二本松を治めることになった。

二本松城の野面積みの石垣

丹羽氏が近世城郭として整えた二本松城の石垣。緑の曲輪との対比が美しい

名君と謳われた丹羽光重は、山上の中世城郭に加え、麓に本格的な近世城郭と城下町を整備した。堂々たる石垣、箕輪門をはじめとする城門、そして山上の天守台へと続く縄張りは、この時代に整えられたものである。文治を重んじた光重は学問を奨励し、二本松は東北有数の城下町として栄えた。

二本松城 三ノ丸の石垣と白壁

二本松城 三ノ丸の堂々たる石垣と白壁。秋には彼岸花が石垣の裾を赤く彩る

【戊辰戦争と二本松少年隊】

幕末、二本松藩は会津藩とともに奥羽越列藩同盟に加わり、新政府軍と戦うことになった。慶応4年(1868年)、新政府軍が二本松へ攻め寄せると、藩の主力は白河方面などに出払っており、城下の兵力は手薄だった。この危機に際し、本来は出陣の年齢に満たない12歳から17歳の少年たちが「二本松少年隊」として動員され、大人たちとともに戦場に立った。

二本松城跡(霞ヶ城公園)の曲輪

霞ヶ城公園として整備された二本松城跡。城内路の標識が見どころを案内する

少年たちは奮戦したが、圧倒的な火力の前に多くが命を落とした。二本松城もまた激しい攻防の末に落城し、天守や御殿は焼失した。会津の白虎隊とともに語り継がれるこの少年隊の悲劇は、戊辰戦争の非情さを今に伝えている。同じ運命をたどった会津若松城とあわせて訪ねると、奥羽の戊辰戦争の全体像がより深く見えてくる。なお、隣接する三春城は早くに新政府軍へ恭順して無血開城しており、徹底抗戦した二本松とは対照的な道をたどった。

【現在の霞ヶ城公園】

落城後、荒廃した二本松城は、近年、箕輪門や石垣が復元され、「霞ヶ城公園」として美しく整備された。春は約2,500本の桜が城跡を彩り、日本さくら名所100選に選ばれている。秋の菊人形展も名物で、四季を通じて多くの人でにぎわう。豪壮な石垣を見上げ、山上の天守台まで歩けば、畠山氏から丹羽氏へと続いた二本松の歴史を体感できるだろう。伊達政宗ゆかりの城をたどるなら、政宗の生誕地である米沢城もあわせて訪ねたい。

【二本松城・場所・アクセス】
〒964-0904 福島県二本松市郭内三丁目

【二本松城地図】

よかったらシェアしてね!
  • URLをコピーしました!
  • URLをコピーしました!
目次