高田城跡(上越市):石を一つも使わない七十五万石の城と、地震が削った二百五十七年

目次

高田城とは

高田城は慶長十九年(1614)、徳川家康の六男松平忠輝が越後高田の菩提が原に築いた城である。石高は七十五万石(諸説あり)とされる大規模な近世城郭だった。

にもかかわらず、この城には石垣が一つもない。そして天守も建てられなかった。案内板が記すその一文が、高田城のすべてを言い表している。

史跡 本丸跡の石柱

「史跡 本丸跡」の石柱。松林の中に立つ(新潟県上越市本城町)

石を用いず、土だけで築いた大城郭

現地の案内板は本丸の造りを数字で示している。本丸は内堀(薬研堀)と塁に囲まれ、堀幅四十〜五十メートル、平均水深五メートル程、塁は高さ十メートル前後で総長約一千メートル

そして次の一文である。「石を用いず2ヵ所の内桝形門と1ヵ所の内カギ形門を挟んだ囲み土塁でした」

高田城 本丸の案内板

「高田城 本丸」の案内板。稲葉正通時代の「高田城図間尺」と、明治期の改造図が並ぶ

七十五万石の城が、土塁と水堀だけでできている。現在の本丸内郭跡は東西二一五メートル、南北二二八メートル。この中に城主の御殿と多くの建物があった。

高田城の内堀

本丸を囲む内堀。幅四十〜五十メートル、水深五メートル程の薬研堀が今も水をたたえる

今日たどってきた城を並べると、この城の位置がはっきりする。臼井城は土橋の幅を狭めて敵を絞り、児山城は小さな本丸を深い堀で回字に囲い、真壁城は広さと湿地で守った。いずれも中世の土の城である。高田城は、その土の技法を近世大名の規模でやり切った城だった。石を積まないのは技術がなかったからではない。慶長十九年といえば大坂の陣の年で、安土城以来の石垣技術は完成している。それでも土を選んだ。

高田城の極楽橋

復元された極楽橋。本丸と二ノ丸を結ぶ

天守を造らず、「御三階」をシンボルに

案内板はこう続ける。天守閣を造らず、塁上には南西隅の三重矢倉を「御三階」と呼んで城のシンボルとし、他に多門櫓二棟、矢倉台一ヵ所、御茶屋台一ヵ所などが設けられていた、と。

高田城の三重櫓

復元された三重櫓。かつて「御三階」と呼ばれ、天守の代わりに城のシンボルだった

天守を建てない城は、この日たどっただけでも壬生城福島城堀田佐野城と続いた。だが高田城は、それらより早く、それらより大きい。七十五万石の城が、着工の段階から天守を持たない設計だった。

現在の三重櫓は平成五年に復元されたもので、内部は資料館になっている。土塁の上に建つ黒い櫓は、堀の水面によく映る。

土塁の上に建つ三重櫓

土塁の上に立つ三重櫓。石垣がないため、建物がそのまま土の高まりから生えているように見える

八家十八代、二百五十七年

城内の絵図案内板には、高田藩の歴代藩主が石高つきで一覧になっている。

松平光長公時代之 高田城繪圖

「松平光長公時代之 高田城繪圖」。歴代藩主一覧表が添えられ、下に葵の紋が掲げられている

松平忠輝(六十万石・1610年)、酒井家次(十万石・1616年)、松平忠昌(二十五万石・1618年)、松平光長(二十六万石・1624年、在任五十七年)、稲葉正通(十万三千石・1685年)、戸田忠真(六万八千石・1701年)、久松松平家(十一万石・1710年)、そして榊原家(十五万石・1741年、在任百三十年)。

八家十八代、二百五十七年。石高が六十万石から六万八千石まで振れているのが目を引く。棚倉城が二百五十年で十六代替わったのと似た構図だが、高田はさらに石高の上下が激しい。越後の要としてどれだけの家格を置くか、幕府の判断がそのまま数字に出ている。

栃木城の主が訴えた相手

初代城主の松平忠輝について、一つ書き添えておきたい。

忠輝の付家老を務めていたのが、栃木城を築いた皆川広照である。広照は慶長十四年(1609)、若い忠輝の行いを幕府に訴え出て、逆に家康の不興を買って改易された。栃木城と皆川城を同じ年に失っている。

そして忠輝自身も、元和二年(1616)に改易される。訴えた家老も、訴えられた主君も、数年のうちに揃って城を失った。広照が一時城主を務めた飯山城とあわせて、下野・信濃・越後が一つの因縁で結ばれている。

地震が、城を削っていった

この城の終わり方も独特である。案内板は災害の履歴を列挙している。

寛文五年(1665)の高田地震、宝暦地震(1751)、善光寺地震(1847)、および享和二年(1802)の火災。案内板はこう書く。「その都度規模が縮小されました」

三重櫓へ登る石段とあじさい

三重櫓へ登る石段。梅雨どきはあじさいが咲く

戦で落ちたのではない。地震と火事のたびに、建て直す範囲が少しずつ小さくなっていった。そして明治三年(1870)の火災によって再び焼失し、以後再建されませんでした。翌明治四年、二百五十七年の歴史が幕を閉じる。

天正大地震が秀吉の家康攻めを止めたように、自然災害は城の運命を静かに決めていく。高田城の場合、それは一度の破局ではなく、二百年かけた漸進的な縮小だった。

さらに明治四十一年(1908)、陸軍第十三師団が入城した際に土塁が切り崩され、城跡は変形した。それでも案内板は「基本的な原形は保存されており、新潟県の史跡に指定されています」と結ぶ。

木々の間から見上げる三重櫓

木々の間から見上げる三重櫓。土塁の高まりの上に建つ

高田城の現地写真

高田城・場所・アクセス

〒943-0834 新潟県上越市本城町
えちごトキめき鉄道「高田駅」から徒歩約20分。北陸自動車道 上越インターから車で約15分。高田城址公園として整備され、駐車場がある。

見どころは三重櫓(内部は資料館)、極楽橋、そして石を一つも使っていない土塁と広い水堀。日本三大夜桜に数えられる桜の名所で、夏には外堀一面に蓮が咲く。

高田城ゆかりの城

  • 春日山城(新潟県上越市)… 上杉氏の本拠。高田城はその平地版の後継といえる
  • 御館(新潟県上越市)… 謙信が上杉憲政のために築いた館。御館の乱の舞台
  • 飯山城(長野県飯山市)… 皆川広照が城主を務めた信越国境の城
  • 栃木城(栃木県栃木市)… 忠輝を訴えて改易された皆川広照の城
  • 棚倉城(福島県棚倉町)… 同じく二百五十年余で城主が入れ替わり続けた幕府の要の城
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