【児山城とは】
児山城は、栃木県下野市下古山、姿川の東岸に広がる台地の上に築かれた平城である。鎌倉時代後期に、宇都宮氏の一族がこの地を分け与えられて築いたと伝えられる。
天守も石垣もない。だが本丸を囲む堀と土塁が、ほぼ完全な形で残っている。栃木県指定史跡(昭和三十六年五月六日指定)。

「史跡 児山城跡」の石柱。本丸跡は静かな林の中にある(栃木県下野市下古山)
【宇都宮頼綱の子孫が築いた城】
現地の案内板によれば、この城は鎌倉時代後期、十三世紀の後半に築かれたと伝えられる。宇都宮頼綱の四男である多功宗朝が、その二男(または三男)の朝定にこの地を分け与え、朝定が城を構えた。以後この家は地名をとって児山氏を称した。
宇都宮氏は下野の名門で、五百年にわたってこの地方に君臨した一族である。その一族は下野から常陸にかけて次々と分家を立て、それぞれの土地に城を築いていった。笠間時朝が常陸に築いた笠間城も、同じ頼綱の一族の手によるものである。
児山城は、宇都宮氏が下野一円に張り巡らせた支城網の結び目のひとつだった。本家の宇都宮城から南西へおよそ十五キロ。姿川沿いの平野を押さえる位置にある。
【小さな本丸に、不釣り合いな堀】
案内板には具体的な数値が記されている。本丸は南北約80メートル、東西約60メートル。南北に長い方形である。

下野市教育委員会の案内板。堀を水色、土塁を茶色で示した縄張図が分かりやすい
80メートル×60メートルというのは、サッカーコートより小さい。城の中枢としてはかなり手狭である。ところがそれを囲む堀は、幅が約15メートル、堀底から土塁の上面までの高低差が現状で約7メートルある。
7メートルは建物の二階を超える高さだ。埋まった分を考えれば、当時はさらに深かったはずである。本丸は小さいのに、その周りだけが異様に厚い。限られた人数で守ることを前提に、面積を切り詰めて防御に資源を集中した設計と読める。

本丸の外側に残る堀と土塁。左手の高まりが土塁、右へ下る窪みが堀跡にあたる
構造は、本丸を囲むように堀と土塁が「回」の字のかたちに配置される輪郭式と考えられている。現在も本丸外側の南側と東側に堀が残る。さらに外側にも堀や土塁が部分的に残り、地名の手がかりとあわせて、城の範囲は南北1キロ、東西500メートルに及んだと推定されている。
中核は小さく、外郭は広い。守るべき一点を絞り込み、その外側にはゆるやかな囲いを幾重にも重ねる。これが児山城の考え方だった。
【土塁の四隅が高い理由】
古い案内板に、見落としやすいが重要な一文がある。「土塁の四隅は他の部分に比べ、高く築かれていて櫓があったと考えられます」というものだ。

栃木県指定史跡の案内板。右手の緑の標識は地元の「児山城守り隊」による山ユリの森の整備を伝える
方形の曲輪の四隅を高くするのは、そこに櫓を上げて二方向を同時に見張り、堀に沿って寄せてくる敵を側面から射るためである。土を盛るだけで、石垣がなくても横矢が掛かる。
現地に立って土塁の上を歩くと、四隅で確かに地面がわずかに盛り上がっているのが分かる。七百年前の設計意図が、今も足の裏に伝わってくる。
【関東の土の城、三つの型】
関東の中世城郭は石垣を持たない。だからといって単調かというと、まったくそんなことはない。地形の使い方で、性格がはっきり分かれる。
下総の臼井城は、印旛沼に張り出した台地の縁を空堀で刻み、土橋の幅を狭め坂を曲げて、上杉謙信の大軍を撥ね返した。細く長い通路に敵を追い込む型である。
常陸の真壁城は、平地に本丸・二の丸・中城・外曲輪を同心円状に広げ、総面積約29万平方メートルという規模と、周囲の湿地で守った。広さそのものを防御にする型だ。
そして児山城は、小さな方形を深い堀で回字に囲い込む型。三つとも同じ「土の城」でありながら、発想がまるで違う。近江の安土城や彦根城のように石を積み上げなくても、土と地形だけでこれだけの多様さが生まれていた。
【百人一首につながる一族】
児山城を築いた家の出発点にいる宇都宮頼綱は、武将としてより、別の分野で名を残している。
頼綱は鎌倉初期に幕府から謀反の疑いをかけられ、出家して蓮生と名乗った。以後は京と下野を行き来しながら、和歌の世界に深く関わっていく。娘は歌人・藤原定家の子である為家に嫁いだ。
その縁で、頼綱は京都嵯峨に構えた山荘の障子に貼る色紙の揮毫を定家に依頼する。定家が古今の歌人から一首ずつ選んで書いたとされるこの色紙が、のちの小倉百人一首の原型と考えられている。定家自身の日記『明月記』に、頼綱の求めに応じて色紙を書いたという記述が残る。
つまり、正月にかるたで読み上げられるあの百首が生まれるきっかけを作った人物の、その子孫が、下野の台地に堀を掘り土を盛っていたことになる。歌の家と、土の城。関東の武士の一族は、この二つを同時に抱えていた。
ちなみに百人一首には、頼綱の甥にあたる笠間城の築城者・笠間時朝も歌人として名を残している。武と歌を兼ねるのが、この一族の家風だったのだろう。
【いま訪ねる児山城】
城跡は「児山城 山ユリの森」として地元の手で整備されている。とちぎの元気な森づくり県民税を使った事業で、「児山城守り隊」と名づけられた地域のボランティアが手入れを続けている。夏には山ユリが咲く。
御城印も販売されている。案内板のそばに販売の案内が掲示されているので、訪問時に確認したい。
なお児山城跡は栃木県指定史跡であると同時に埋蔵文化財包蔵地でもある。掘削など地形を改変する行為には申請・届出が必要とされている。遺構を踏み荒らさないよう、歩く場所には気を配りたい。
【児山城・場所・アクセス】
〒329-0511 栃木県下野市下古山
JR宇都宮線「自治医大駅」から徒歩約25分。北関東自動車道 壬生インターから車で約15分。城跡北側に見学者用の駐車スペースがある。
見どころは本丸の堀と土塁、そして土塁の四隅である。案内板の縄張図で堀と土塁の位置を頭に入れてから一周すると、回字状の構造が体感できる。
【児山城ゆかりの城】
