【栃木城とは】
栃木城は、天正十九年(1591)に皆川広照が築いた城である。現在の栃木市中心部、栃木城址公園のあたりにあった。
ところがこの城は、わずか十八年で取り壊されている。戦で落ちたのではない。城主が徳川家康の怒りに触れたためである。

栃木城址公園の標柱。市街の住宅地に囲まれた静かな公園になっている(栃木県栃木市城内町)
【皆川広照が築いた城】
現地の案内板によれば、栃木城は応永元年(1394)に皆川紀伊守秀光が築いたと伝えられるが、「その歴史をつまびらかにすることはできません」と正直に記されている。
確かなのはその二百年後である。天正十九年(1591)、皆川山城守広照が、それまでの居城だった皆川城にかわるものとして、この地に新しい城を築いた。
皆川氏は下野の小大名で、宇都宮氏や後北条氏のあいだで揺れ動きながら家を保ってきた。広照は天正十八年(1590)の小田原征伐で豊臣方に付き、本領を安堵される。その翌年に平地へ下りて築いたのが栃木城だった。山城から平城への移行は、戦国が終わったことの表明でもある。

「史跡 栃木城跡」の案内板。城の各郭の寸法が間とメートルの両方で細かく記されている
【案内板が伝える城の寸法】
この案内板が貴重なのは、城の規模を数字で残している点である。取り壊されて遺構がほとんど失われた城について、これだけの情報があるのは珍しい。
- 城の西入口から栃木町の通りまで 五丁四十間(約618メートル)
- 城のまわり 五百十間(約927メートル)
- 本丸 東西 八十二間(約149メートル)/南北 七十三間(約133メートル)
- 二の丸(東丸と南丸があった) 東西 十一間(約20メートル)/南北 三十六間(約65メートル)
- 蔵屋敷 東西 七十間(約127メートル)/南北 四十六間(約83メートル)
- 三の丸 東西 二十八間(約50メートル)/南北 七十二間(約131メートル)ほか
本丸は149メートル×133メートル。同じ栃木県の壬生城の本丸が約140メートル四方だったから、ほぼ同じ規模である。中世の児山城が80メートル×60メートルだったのと比べると、倍以上の広さになる。戦国が終わり、城が「住み、治める場所」へ変わっていく過程が、本丸の面積に表れている。
城の東北、すなわち鬼門にあたる方角には、皆川から東宮神社を勧請して祀ったという。新しい城を築くにあたって、守りの神も引っ越しさせたことになる。

城址公園に残る土塁。堀の跡とこの土の高まりが、城のわずかな痕跡である
【変わり身で生き延びた家】
皆川氏は、下野の大勢力に挟まれた小大名だった。北に宇都宮氏、東に佐竹氏、南に後北条氏。どこかに付かなければ立ち行かず、付いた相手が敗れれば家が終わる。
広照はその状況を、去就を変えることで乗り切った。後北条方として動いていた時期もあれば、離れた時期もある。天正十八年(1590)の小田原攻めのときには小田原城に入っていたが、包囲のさなかに城を抜け出して豊臣方に降り、本領を安堵された。
節操がないと言えばそれまでだが、小大名が生き残るとはそういうことでもある。同じ下野で、後北条方に付いたまま滅んだ壬生氏と比べれば、広照の判断は正しかった。
その広照が、最後は改易されている。しかも理由は寝返りでも謀反でもなく、主君の行いを幕府に訴えたことだった。変わり身の早さで生き延びてきた家が、正論を述べて城を失う。戦国から江戸へ、生き残りの作法が変わったことを、これほど分かりやすく示す例も少ない。
【十八年で消えた城】
慶長十四年(1609)、広照は徳川家康の怒りに触れ、改易される。栃木城は取り壊された。
広照はこのとき、家康の六男・松平忠輝の付家老を務めていた。若い主君の行いを幕府に訴え出たところ、かえって家康の不興を買ったと伝えられる。主君を諌めた家臣が、そのために城を失ったということになる。
案内板は結末をこう書く。取りこわされてしまい、堀の跡や土塁の一部が「城内」という地名とともに残るだけとなってしまいました、と。
築城から取り壊しまで十八年。一乗谷が百年、笠間城の笠間氏が三百七十年続いたことを思えば、あまりに短い。城の寿命を決めるのは、堀の深さでも石垣の高さでもなく、城主が中央とどう向き合うかだった。
【連歌の巻物をもらった家臣】
この城には、もうひとつ忘れがたい話が伝わっている。城址公園に立つ「坂本與兵衛ギャラリー」の案内板である。

「皆川山城守家臣 坂本與兵衛」の案内板。連歌の巻物の写真が並ぶ
案内板によれば、戦国時代、坂本與兵衛は小大名・皆川広照の家臣として栃木城を守った。その報奨として与えられたのが、連歌の「巻物」だった。
土地でも金でもなく、歌である。天正十二年(1584)季冬下旬の日付を持つ連歌百韻——五・七・五、七・七と百句が連なる巻物で、長さは四メートル五十センチある。
さらに続きがある。與兵衛はその後百姓となり、寺子屋を開いた。寺子屋の名は「巻物」。褒美にもらった歌の巻物を屋号にして、村の子どもたちに読み書きを教えたのである。その巻物は今も伝わっている。
城を守った褒美が歌になり、その歌が学び舎の名前になった。武士が刀を置いて教える側に回るという江戸の始まりが、この一巻に凝縮されている。児山城を築いた宇都宮一族が小倉百人一首の成立に関わったことといい、下野の武士と歌の距離は、思いのほか近い。
【栃木城・場所・アクセス】
〒328-0043 栃木県栃木市城内町
JR両毛線・東武日光線「栃木駅」から徒歩約20分。東北自動車道 栃木インターから車で約15分。栃木城址公園として開放されている。
遺構は土塁の一部と堀跡を残すのみだが、案内板の寸法を読みながら歩くと、失われた城の大きさが想像できる。栃木市中心部には江戸期の蔵の町並みが残っており、あわせて回りたい。
【栃木城ゆかりの城】
