【もうひとつの佐野城】
栃木県佐野市には、「佐野城」と呼ばれる城跡が二つある。
ひとつは佐野駅の北にある佐野城(春日岡城)。慶長七年(1602)に佐野信吉が築き、七年で廃された城である。もうひとつがこの堀田佐野城で、築かれたのは文政十一年(1828)。二つの間には二百二十六年の隔たりがあり、場所も市内の別々の地区にある。
こちらは住宅街のただ中にあり、遺構らしい遺構は残っていない。だが石碑と案内板が、失われた城のかたちを驚くほど詳しく伝えている。

「史跡 佐野城墟」の石柱と案内板。住宅街の一角に静かに立つ(栃木県佐野市植下町)
【四十一年で終わった城】
現地の案内板によれば、堀田佐野城跡は植下町大原地内の植野馬門街道の両側一帯にあり、規模は東西540メートル、南北360メートル、周囲約1.8キロメートルである。
そして城の一生は短い。文政十一年(1828)に築城され、四十一年後の明治二年、堀田摂津守正頌が版籍奉還して廃城となった。

「佐野城墟碑及び城郭図」の案内板(平成七年十二月・佐野市教育委員会)
四十一年というのは、栃木城の十八年、佐野城の十二年に次ぐ短さである。ただし性格はまったく違う。栃木城も佐野城も政変で取り壊されたが、堀田佐野城は時代そのものが終わったことで役目を失った。戦を一度も経験しないまま、版籍奉還という手続きによって城でなくなったのである。
【石に刻まれた城の間取り】
この城跡でいちばん見応えがあるのが、城跡中央部に建てられた佐野城郭図の碑である。黒い石の表面に、城の間取りが線刻されている。

「佐野城郭図」の碑。御殿・学問所・調練場・馬場までが線で刻まれている
刻まれているものを読み上げてみる。御殿、学問所、御稽古場、調練場、御家老屋敷、糺問所、武士長屋、米蔵、土蔵、宝蔵、稲荷明神、大手門。庭には泉水と築山があり、馬場には「長さ78間 巾7.5間」と寸法まで添えられている。道の幅も「道巾五間」「道巾七間」と書き分けられている。
天守も櫓も出てこない。ここにあるのは、政務と教育と訓練のための施設の集まりである。幕末の藩の城とは、要するに役所と学校と道場だった。壬生城が天守も櫓も持たず御殿だけを構えていたのと同じ発想が、こちらではさらに徹底している。
【城を築いた殿様は、鳥の図譜を作った人だった】
文政十一年にこの城を築いたのは、佐野藩主堀田正敦である。この人物の経歴が、少し変わっている。
正敦は仙台藩主・伊達宗村の八男として生まれ、堀田家に養子に入った。近江堅田の藩主を務めたのち、文政九年(1826)に下野佐野へ移り、その二年後に城を築いている。
幕府では若年寄を四十年近く務めた実務家であり、大名家の系譜を集大成した『寛政重修諸家譜』の編纂総裁でもあった。それだけでも十分な功績だが、正敦にはもう一つの顔がある。鳥類の図譜を編んだ博物学者だったのである。『観文禽譜』をはじめとする一連の著作は、江戸期の博物学の到達点のひとつに数えられる。
大名として城を築き、幕臣として系譜を編み、学者として鳥を描く。この城の御殿と学問所は、そういう人物の役所だったと思って城郭図を眺めると、刻まれた「学問所」の三文字の見え方が少し変わってくる。
なお同じ堀田一族の佐倉藩からは、幕末に老中として日米修好通商条約の交渉にあたった堀田正睦が出ている。
【碑文を書いたのは、西村茂樹】
案内板は、この石碑についてもう一つ重要なことを記している。城跡中央部に建てられた佐野城墟碑の碑文は、旧藩旧家老・西村茂樹が書いたもので、旧藩士の心情を格調高い文で刻んでいる、と。
西村茂樹は、明治の日本を代表する啓蒙思想家である。福澤諭吉や森有礼らとともに明六社に加わり、文部省で編輯局長を務め、日本弘道会を創立して国民道徳の確立を説いた。『日本道徳論』の著者として知られる。
その西村が、佐野藩堀田家の家老の家に生まれた人物だった。近代日本の道徳を論じ続けた人が、自分の生まれた藩の消えた城のために、碑文を書いている。
版籍奉還で藩がなくなり、城が取り払われ、藩士たちは禄を失った。その人々の心情を、旧家老が漢文で石に刻む。館林城で旧藩士たちが城沼を開墾し、栃木城の家臣の子孫が寺子屋を開いたように、武士でなくなった人々がどう身を処したかという記録が、下野の城跡には繰り返し現れる。
【堀田佐野城・場所・アクセス】
〒327-0102 栃木県佐野市植下町
東武佐野線「田島駅」から徒歩、またはJR「佐野駅」から車で約10分。東北自動車道 佐野藤岡インターから車で約15分。城跡は市街地化しており、石碑と案内板が道路沿いに立つ。
土塁や堀といった遺構はほとんど残っていない。見どころは佐野城墟碑と城郭図の碑そのもので、石に刻まれた間取りを読むための場所と考えて訪ねるとよい。慶長期の佐野城とは別の場所なので、混同しないよう注意したい。
【堀田佐野城ゆかりの城】
