土浦城跡(亀城):居城を九度失った小田氏治が最後に頼った、水に浮かぶ城

水堀に囲まれた土浦城。亀城の名のとおり水に浮かぶように見える

茨城県土浦市。霞ヶ浦の西、桜川の河口に近い低地に、土浦城——別名亀城(きじょう)がある。

この城には、戦国の常陸を語るうえで欠かせない物語がある。居城を何度も奪われ、そのたびに取り返し続けた男が、最後に頼った城だからだ。その男の名を、小田氏治という。

本丸櫓門の脇に立つ「史跡 土浦城址」の碑

目次

なぜ「亀城」と呼ばれるのか

案内板は、この城の立地をこう説明する。

土浦城は霞ヶ浦の西方、桜川河口の低地に築かれた平城です。

低地である。つまり水に恵まれすぎている土地だ。城はその条件を逆手にとって、本丸・二ノ丸を中心に三ノ丸・外丸と、幾重にも堀を巡らせた。大水が出ても、堀に囲まれた城郭だけが水の上に浮かんで見えた——だから亀城。弱点をそのまま防御に変えた城である。

水堀に囲まれた土浦城。堀の幅と水量が、この城の性格を語っている

戦国の土浦城は、小田氏の城だった

案内板は続けてこう記す。

戦国時代には小田氏配下の菅谷氏の居城となり佐竹氏との戦いの舞台となりました。

小田氏は常陸の名門で、本拠は小田城(現つくば市)。その配下として土浦城を預かったのが菅谷氏である。そして相手は佐竹氏——このころ常陸北部から南へ勢力を広げてきた家である。

県指定史跡「土浦城跡および櫓門」の案内板。二の丸跡の標柱が並んで立つ

居城を九度失った男

小田氏治(1531〜1601)は、しばしば「戦国最弱」と呼ばれる。小田城を上杉謙信に、佐竹に、結城に——数え方によっては九度も奪われたとされるからだ。

だが、この呼び名は半分しか当たっていない。奪われるたびに、彼は取り返している。九度失ったということは、八度取り返したということでもある。

そして永禄十二年(1569)十一月、手這坂の戦いで佐竹方の太田資正・梶原政景父子に大敗する。小田城は落ち、退路も断たれた。このとき氏治を受け入れたのが、家臣・菅谷政貞の土浦城だった。

負け続ける主君を、家臣が城ごと迎え入れている。ここが小田氏治という人物の核心だと思う。弱かったのは戦であって、人望ではなかった。

水堀越しに西櫓と本丸土塁を望む。攻める側から見れば、水がそのまま壁になる

天正二年、夜の脱出

土浦城での抵抗も長くは続かなかった。天正二年(1574)二月、佐竹勢の攻撃を受け、兵力の差はいかんともしがたく、氏治は夜ひそかに城を脱け出す。土浦城は落ちた。

その後、氏治は小田原征伐で北条方についたため所領を失うが、のちに赦されて結城秀康の客分となり、秀康の越前移封に従って常陸を離れた。

ここに、この城のいちばん静かな皮肉がある。案内板によれば、家康の関東入国後、土浦城の城代を務めたのは結城氏だった。自分が失った城を預かった家に、最後は食客として身を寄せ、その家について越前へ渡ったことになる。秀康が越前で築いたのが、のちの福井城である。

本丸の裏手に建つ霞門。この門も江戸時代からそのまま残る

街道そのものを城に組み込んだ

江戸時代の土浦城には、全国的にも珍しい構造がある。案内板の説明を引く。

なお水戸街道という主要街道に、南門・北門の馬出しという城の大規模防御施設を設けているのは、全国でも珍しい事例です。

馬出しとは、門の外に置いて出撃と防御を兼ねる区画のこと。それを城内ではなく、街道の出入口に据えた。街道を歩く者は、知らないうちに城の防御施設の中を通っていたことになる。

土浦は江戸から水戸へ向かう街道の要地であり、霞ヶ浦の水運の拠点でもあった。水戸城へ通じるこの道を押さえることが、そのままこの城の役目だった。江戸時代の城主は(藤井)松平氏、西尾氏、朽木氏、土屋氏、(大河内)松平氏と替わり、土屋氏が九万五千石で長く続いている。

移築された旧前川口門。親柱の背後に控柱を立てて屋根を架ける高麗門の形式

町ごと土塁で囲んだ

案内板はもう一つ、重要なことを書いている。

更に外郭の北門・南門・西門を要として土塁で囲む総構がつくられています。

総構——城郭だけでなく、武家屋敷も町屋もまとめて外周の土塁と堀で囲い込む構えである。小田原城の大規模な総構がよく知られるが、土浦城もその思想を受け継いでいた。

戦国の城が「殿様の籠る場所」だったのに対し、総構の城は「町ぐるみで籠る場所」である。守るべき対象が、城から町へ広がっている。土浦城の姿は、その変化がそのまま形になったものだ。

城から役場へ、寺へ、そしてまた城へ

公園の入口に立つ旧前川口門には、変わった来歴がある。案内板をたどると、こうなる。

  • もとは武家屋敷と町屋を仕切る「前川口門」。江戸時代末期の建築
  • 明治十八年(1885)、土浦戸長役場(のちの町役場)の門になる
  • 大正九年(1920)、田宿町の等覚寺の山門として移される
  • 昭和五十六年(1981)、寺の寄贈を受けて、二之門のあった現在地へ移築

城の門が、役場の門になり、寺の門になり、また城に戻ってきた。建物が生き延びるというのは、たいてい本来の役目を離れるということなのだと、この門を見ていると思う。

復元された東櫓。桜まつりの提灯と屋台が並ぶ

関東の平城で、門が残った理由

本丸の櫓門と霞門は、江戸時代からそのまま建っている建築である。関東の城の多くが明治に取り壊され、あるいは戦災で焼けたことを思えば、これは幸運というほかない。

西櫓・東櫓・本丸土塁は復元だが、門が本物であることの重みは大きい。くぐった瞬間に、寸法が体に入ってくるからだ。平成二十九年(2017)、土浦城は続日本100名城に選ばれている。

亀城公園の碑/本丸櫓門を正面から/本丸跡の標柱と桜/町並みのすぐ横を走る外堀

常陸の城をたどる

  • 小田城(茨城県つくば市)… 小田氏十五代の本拠。氏治が何度も失い、何度も取り返した城
  • 水戸城(茨城県水戸市)… 水戸街道の終点。佐竹義宣、のち徳川御三家の城
  • 下妻城(多賀谷城)(茨城県下妻市)… 小田氏と争った多賀谷氏の城
  • 下館城(茨城県筑西市)… 結城氏の家臣・水谷氏が拠った常陸西部の城
  • 福井城(福井県福井市)… 氏治が最後に従った結城秀康の城
  • 結城城(茨城県結城市)… 家康の関東入国後に土浦城代を務めた結城氏の本城

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アクセス

〒300-0043 茨城県土浦市中央1-13(亀城公園)
JR常磐線「土浦駅」西口から徒歩約15分。本丸・二ノ丸の一部が亀城公園として開放されており、東櫓は内部を見学できる。春は桜の名所として知られる。

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