- 真田大助は真田幸村(信繁)の嫡男で、実名は幸昌。十勇士の中でただ一人、実在がはっきりしている人物です
- 父が流された九度山で生まれ、1614年に父とともに大坂城に入りました
- 大坂夏の陣で城が落ちた慶長20年(1615年)5月8日、豊臣秀頼に殉じて自害しました
ドラマ『真田十勇士 SHADOWS OF THE TEN NINJA』で、城桧吏さんが演じるのが真田大助です。真田幸村(安藤政信)の息子で、戦う力はないものの強い思いを秘めた人物として描かれますが、大助は十勇士の中でただ一人、実在がはっきりしている人物です。ここでは、史実の真田大助(幸昌)の生涯と、大坂の陣での最期を紹介します。
真田大助とは
真田大助は、真田幸村(信繁)の嫡男で、実名は真田幸昌といい、大助は通称です。母は幸村の正室で、豊臣秀吉に重く用いられた大谷吉継の娘と伝えられています。父の幸村が関ヶ原の戦いのあと、祖父の真田昌幸とともに紀伊国の九度山に流されたため、大助はその配流先で生まれたといわれていて、生まれた年には諸説ありますが、慶長の初めごろとする見方が多いようです。九度山での暮らしについては九度山とはで紹介しています。
九度山を出て大坂城へ
慶長19年(1614年)、豊臣家と徳川家の手切れが決定的になると、豊臣方は各地の浪人に呼びかけて兵を集め、九度山の幸村にも声がかかりました。幸村はひそかに九度山を抜け出して大坂城に入り、まだ十代前半の大助も父とともに城へ向かいました。こうして大助は、生まれ育った九度山を離れ、父とともに徳川の大軍と戦うことになります。
大坂冬の陣・夏の陣での大助
慶長19年の大坂冬の陣では、幸村が大坂城の南に出城の真田丸を築いて徳川方を大いに苦しめ、大助も父のもとでこの戦いに加わったと伝えられています。翌慶長20年(1615年)の大坂夏の陣では、5月6日の道明寺・誉田方面の戦いに出陣し、このとき傷を負ったともいわれています。大坂の陣の流れは大坂の陣をわかりやすく解説でも紹介しています。
秀頼に殉じた最期
5月7日、幸村は天王寺口で家康の本陣に迫る最後の突撃に挑みますが、その前に大助を大坂城へ戻らせ、豊臣秀頼のそばに付き従うよう命じたと伝えられています。父子の別れについては、大助が父とともに戦いたいと願ったものの、秀頼を守ることこそ真田の役目だと諭されて城に戻ったという話が語り継がれています。そして幸村が討死した翌日の5月8日、大坂城が落ちる中で、大助は秀頼や淀殿とともに自害しました。まだ十代半ばの若さでしたが、最後まで秀頼のそばを離れなかった姿は、幸村の嫡男らしい最期として後世に伝えられています。淀殿と秀頼の最期については家康は秀頼と淀殿を助けようとしたのかも参考にしてください。
大助の弟・大八と真田の血筋
大助は若くして亡くなりましたが、幸村の血筋はそれで絶えたわけではありません。幸村の次男の大八は、伊達家の重臣の片倉重長のもとで育てられたと伝えられ、のちに仙台藩士として真田の名を伝えました。真田一族のその後は真田一族の歴史でたどっています。
ドラマ『真田十勇士』の真田大助(城桧吏)
ドラマの真田大助は、十勇士の一人に数えられ、戦闘力には欠けるものの、強い思いを秘めた人物として描かれます。講談や立川文庫でも、大助は十勇士とともに父を支える若武者として登場することが多く、ドラマでは武力を持たない自分に悩みながら、十勇士とともに成長していく姿が描かれていきそうです。史実の最期を知っていると、大助が物語の中でどんな覚悟を固めていくのかがいっそう胸に迫ります。演じる城桧吏さんのほかの配役は『真田十勇士』キャスト・相関図一覧にまとめています。
よくある疑問
Q. 真田大助は実在の人物ですか?
A. 実在の人物です。真田幸村の嫡男で、実名は真田幸昌といいます。
Q. 真田大助はどのように亡くなりましたか?
A. 慶長20年(1615年)5月8日、大坂城が落ちる中で、豊臣秀頼や淀殿とともに自害したと伝えられています。
Q. 真田大助の母は誰ですか?
A. 幸村の正室で、大谷吉継の娘と伝えられる女性です。
Q. ドラマで真田大助を演じるのは誰ですか?
A. 城桧吏さんです。
まとめ
真田大助(幸昌)は、九度山で生まれ育った真田幸村の嫡男で、父とともに大坂城に入り、冬の陣・夏の陣を戦ったのち、秀頼に殉じて十代の若さで自害した実在の人物です。十勇士の中でただ一人、史実に確かな足跡を残した大助が、ドラマでどのように成長していくのかに注目です。
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