豊臣秀吉の死因は何だったのか|がん・結核・脚気・老衰・腎虚まで10説を比べる ─ 62歳、伏見城での最期

満開の桜の下、打掛姿の女性たちが朱塗りの杯を前に座る醍醐の花見のイメージ(イラスト)
この記事のポイント
  • 秀吉は慶長3年(1598)8月18日、伏見城で62歳で亡くなりました。死因を記した同時代の診断書のようなものは残っていません
  • 残っているのは病名ではなく症状です。下痢、腹痛、食欲不振、やせ、失禁。晩年は咳が止まらなかったとも伝わります
  • そこから、がん・脚気・結核・梅毒・腎臓の病・赤痢などの感染症・呼吸器の病・毒殺、さらに老衰や腎虚という説が立てられてきました
  • 歴史学者の桑田忠親は、このうち結核(労咳)説を「もっとも無難」としています
  • 「天ぷらを食べて死んだ」のは秀吉ではなく家康の話です。しかもその家康の話も俗説です

豊臣秀吉の死因は、いまも決まっていません。はっきりしているのは、慶長3年(1598)8月18日に伏見城で62歳の生涯を閉じたことと、その年の春から急に弱っていったことだけです。残っているのは病名ではなく、下痢・腹痛・食欲不振・やせ・失禁といった症状の記録でした。そこから後の人が、がん、脚気、結核、梅毒、腎臓の病、そして老衰や腎虚と、いくつもの説を立ててきたのです。この記事では、どの説がどんな根拠で語られてきたのかを一つずつ並べ、どこまでが記録で、どこからが推測なのかを分けて整理します。

座敷で秀吉を囲んで昔話を語る御伽衆のイメージ(イラスト)
晩年の秀吉は、御伽衆を集めて昔話を聞くことを好んだと伝わります(イメージイラスト)
目次

■ 豊臣秀吉・秀長 オリジナルグッズ ■

当サイトがデザインした秀吉・秀長グッズ。Tシャツ・マグカップ・トートバッグに加え、スマホケース・フェイスタオル・タンブラーなどもあります

秀吉・秀長グッズを見る ▶

※当サイト「日本の歴史ガイド」のオリジナル商品です。NHK・大河ドラマの公式グッズではありません。

死の5か月前、秀吉は花見をしていた

慶長3年(1598)3月15日、秀吉は京の醍醐寺で盛大な花見を催しました。世に言う醍醐の花見です。700本ともいわれる桜を植えさせ、女房衆を中心に1,300人を招いたと伝わります。この日の秀吉は、とても5か月後に死ぬ人には見えません。

ところがその2か月後から、秀吉の体は目に見えて弱りはじめます。5月に床につき、6月には重くなり、7月には回復の見込みがないと周囲が覚悟するほどになりました。そして8月18日、伏見城で息を引き取ります。花見から数えて、わずか5か月のことでした。秀吉がこの時期に催した大きな催しについては北野大茶湯・名護屋の瓜畑遊び・醍醐の花見でまとめています。

記録に残っているのは、病名ではなく症状

当時の日記や記録に書き留められているのは、病名ではありません。秀吉の身に起きたこと、つまり症状です。伝わっているものを並べると、次のようになります。

  • 食欲がなくなり、ものが食べられない
  • 下痢と腹痛が続く
  • 手足が痛む
  • みるみる痩せていく
  • 薬が効かない
  • 失禁があった
  • 晩年は咳が止まらなかったとも伝わる

これだけです。現代の医者がこの一覧を見ても、病名を一つに絞ることはできません。症状は残り、診断は残らなかった ─ これが秀吉の死因が決まらない最大の理由です。戦国武将の病気がどこまで記録されているかは戦国武将の病気と死因で、名医・曲直瀬玄朔の診察記録『医学天正記』をもとに紹介しています。

語られてきた10の説を並べる

秀吉の死因として挙げられてきた説を、根拠と弱点の両方で並べます。どれも決め手を欠いているということが、並べるとよく分かります。

説 根拠とされるもの 弱いところ
胃がん・大腸がん 食べられずに痩せ衰えていく経過が、消化器のがんの末期に似ている 当時の記録に腫瘤や吐血の記述はなく、経過が似ているというだけ
結核(労咳) 晩年に咳が止まらなかったと伝わる。歴史学者の桑田忠親は、諸説のなかで「結核説がもっとも無難」とした 咳の記録そのものが後世の書に頼る部分が大きい
脚気 白米を好んだ天下人の食事と、手足の痛みやむくみが結びつく。戦国から江戸にかけて身分の高い人に多かった 脚気は江戸の大名に多く見られた病で、秀吉に当てはめるのは推測
梅毒(脳梅毒) 晩年の判断の揺れを病と結びつける見方。当時の武将に広がっていた病でもある 秀吉が梅毒だったという同時代の記録はない。晩年の政治判断を病のせいにするのは乱暴
腎臓の病・尿毒症 失禁の記録と、全身が弱っていく経過 失禁は重い病の末期にはよくあることで、腎臓に限らない
赤痢などの感染症 下痢が続いたこと。『日本西教史』にそれらしい記述がある 血便の記録がなく、長い経過も急性の感染症とは合わない
呼吸器の病(肺炎など) 秀吉に桔梗湯という漢方が処方されていたこと。これは呼吸器に使う薬である 処方は症状を抑えるためのもので、それが死因とはかぎらない
毒殺 朝鮮の史書『燃藜室記述』に、明の使者が毒を入れたという話が載る その使者が日本に来たのは2年前で、時期が合わない。日本側の記録にも痕跡がない
老衰(加齢と長年の無理) 62歳は当時として高齢の部類。20代から戦場を駆け、天下人になってからも休まなかった。特定の病を探さなくても、全身が弱っていく説明はつく 「老衰」は病名ではないため、急に弱った5か月の経過をこれだけで説明しきれない
腎虚(じんきょ) 漢方でいう腎 ─ 生命の精気を蓄える臓 ─ が衰えた状態。むくみ、だるさ、頻尿といった症状は秀吉の記録と重なる。側室の多さから、精気を使い果たしたという見方が後の世に語られた 腎虚は当時の医学の考え方であって現代の病名ではない。側室が多かったことと死因を結びつける確かな記録もない

表のとおり、どの説も「この症状に似ている」という推定から出発しているのがわかります。秀吉が62歳まで生きたこと自体は当時として長命の部類で、同じ時代を生きた家康が75歳まで保ったのはむしろ例外的でした。家康が何をしていたのかは徳川家康はなぜ75歳まで長生きできたのかで書いています。

当時の医者なら、何と診断したか

いま私たちは、がんや結核といった現代の病名で秀吉の死を説明しようとします。けれども当時の医者が秀吉を診ていたなら、おそらく別の言葉を使ったはずです。そのひとつが腎虚(じんきょ)です。

漢方でいう「腎」は、西洋医学の腎臓とは違います。生命の精気をたくわえ、成長や生殖をつかさどる臓と考えられてきました。その精気が足りなくなった状態が腎虚です。症状として挙げられるのは、だるさ、手足のむくみ、頻尿、耳鳴り、気力が出ない ── 秀吉について伝わる症状と、かなり重なります。

そして近世には、この腎虚が房事と結びつけて語られるようになりました。精気には限りがあり、使い果たせば死ぬ、という考え方です。秀吉は側室の多かった人ですから、「女色が過ぎて精気を使い果たした」という見方が、後の世に語られることになりました。江戸の笑い話には腎虚を題材にしたものが数多くあり、当時の人にとってはなじみ深い言葉だったのです。

ただし、ここは分けて考える必要があります。腎虚は当時の医学の枠組みであって、現代の病名ではありません。また、秀吉の側室の多さと死を結びつける同時代の記録もありません。晩年の秀吉に生まれた子は鶴松と秀頼の2人だけで、むしろ子ができにくかった人でもあります。「女好きが祟った」という話は、天下人の死に理由を与えたがった後の世の語りと見るのが妥当でしょう。茶々が産んだ2人の子については茶々(淀殿)の生涯で書いています。

もうひとつ、当時の人が自然に受け取ったであろう見方が老衰です。62歳は今でいえば十分に高齢で、しかも秀吉は20代から戦場を駆け、天下人になってからも休みませんでした。特定の病を探さなくても、使い切った体がそこで止まったという説明は成り立ちます。同じ時代に75歳まで保った家康が、鷹狩りで体を動かし、薬を自分で調合し、麦飯と豆味噌で通していたこととは対照的です。家康の暮らしぶりは徳川家康は薬を自分で作っていたのかにまとめました。

毒殺説はどこから来たのか

秀吉ほどの人物になると、死因に尾ひれがつきます。毒殺説の出どころは、朝鮮で編まれた『燃藜室記述』という史書です。明から日本へ渡った使者・沈惟敬が毒を盛ったという筋書きですが、その使者が日本に来たのは秀吉の死の2年前で、時期が合いません。日本側の記録にも、毒を疑った形跡はありません。

家康による毒殺を疑う声もありますが、こちらはもっと根拠がありません。当時の家康は五大老の筆頭として秀吉に忠誠を誓う立場にあり、秀吉の死後に動けばよかったからです。実際、家康が動きはじめるのは秀吉が亡くなってからでした。その経緯は秀吉の死後、なぜ天下は家康に傾いたのかで追っています。

当時の人は「大仏の祟り」と受け取った

いま私たちは病名を探しますが、同じ時代の人びとは別の理由を考えました。方広寺の大仏の祟りです。秀吉は京に大仏を造りましたが、慶長の伏見大地震で壊れてしまいます。そのあと秀吉は信濃の善光寺如来を無理に京へ移し、本尊として据えました。ところがその直後から体調を崩したため、人びとは仏罰だと噂したのです。

善光寺如来は秀吉の死の前日に信濃へ帰されたと伝わります。間に合わなかった、と当時の人は思ったのでしょう。秀吉の死因は、同時代には医学ではなく信心の言葉で語られていたということです。方広寺の大仏がその後どうなったかは第43回「殿下の刀狩り」あらすじ予想と史実でも触れています。

「天ぷらで死んだ」のは秀吉ではない

検索で混同されやすいので書いておきます。鯛の天ぷらを食べて亡くなったという話は、秀吉ではなく徳川家康のものです。しかもその家康の話も、亡くなったのは食事から3か月後ですから、直接の死因とするには無理があります。

同じように、加藤清正が家康に毒を盛られたという話も後世の作り話です。有名な武将ほど、死因には物語がつきます。そうした俗説がどう生まれたかは戦国武将の病気と死因にまとめました。

秀吉は自分の死をどう準備したか

死因は分かりませんが、秀吉自身が「もう長くない」と自覚していたことは、その行動から読み取れます。亡くなる前の数か月で、秀吉は次のことをしました。

  • 徳川家康ら5人を五大老、石田三成ら5人を五奉行として、政務の形を決めた
  • 大名たちに、6歳の秀頼へ忠誠を誓う起請文を提出させた
  • 家康と前田利家に、繰り返し秀頼の行く末を頼んだ

秀吉がもっとも恐れたのは自分の死ではなく、幼い秀頼が残されることでした。その不安は当たり、秀吉の死から2年で関ヶ原が起きます。秀吉が築いた仕組みがなぜ持たなかったのかは秀吉の死後、なぜ天下は家康に傾いたのかで書きました。秀頼を産んだ茶々のその後は茶々(淀殿)の生涯をどうぞ。

なお秀吉の死はすぐには公表されませんでした。朝鮮に大軍を残したままだったからです。撤兵が終わるまで死は伏せられ、公になったのは翌年のことでした。

醍醐の花見で桜の下に集う女房衆のイメージ(イラスト)
慶長3年3月の醍醐の花見。この5か月後に秀吉は亡くなります(イメージイラスト)

なぜ死因は決まらないのか

理由は三つあります。

ひとつ目は、当時の医学に病名という考え方が今とは違ったことです。医師は症状を見て薬を選びましたが、体の内側で何が起きているかを診る方法がありませんでした。

ふたつ目は、天下人の体のことは秘事だったことです。詳しい病状を書き残せば、政権の不安定さを知らせることになります。だから記録はどうしても断片になります。秀吉の死が伏せられたのも同じ理由です。

三つ目は、遺体が残っていないことです。秀吉は豊国社に葬られましたが、徳川の世になって社は壊されました。いま調べる手立てがないのです。病名がどこまで分かるのかという話は戦国武将の病気と死因の終わりでも触れています。

よくある疑問

Q. 豊臣秀吉の死因は結局なんですか?
A. 分かっていません。がん、結核、脚気、腎臓の病などが挙げられてきましたが、どれも症状からの推定です。「不明」と答えるのが正確です。

Q. 何歳で亡くなったのですか?
A. 62歳です。慶長3年(1598)8月18日、伏見城で亡くなりました。

Q. どこで亡くなったのですか?
A. 伏見城です。晩年の秀吉は大坂城ではなく伏見城を住まいとしていました。

Q. 天ぷらを食べて死んだと聞きました
A. それは徳川家康の話で、秀吉のものではありません。家康の話も、食事から3か月後の死ですから俗説です。

Q. 単なる老衰ではないのですか?
A. それも有力な見方です。62歳は当時として高齢で、20代から無理を重ねた体でした。ただ「老衰」は病名ではないため、急に弱った5か月の経過は説明しきれません。

Q. 女色が過ぎて弱ったという話を聞きました
A. 漢方でいう腎虚と結びつけた、後の世の見方です。秀吉の側室の多さと死を結ぶ同時代の記録はなく、晩年に生まれた子は2人だけでした。

Q. 毒殺された可能性はありますか?
A. 朝鮮の史書に毒殺の話がありますが、名指しされた使者が来日したのは2年前で、時期が合いません。

Q. 秀吉の死はすぐに知られたのですか?
A. いいえ。朝鮮に軍を残していたため死は伏せられ、公表されたのは翌年でした。

まとめ

豊臣秀吉の死因は、いまも特定されていません。残っているのは、食べられない、下痢が続く、痩せていく、薬が効かないという症状の記録だけです。そこからがん、結核、脚気、梅毒、腎臓の病、感染症と説が立てられ、老衰や腎虚、毒殺や祟りまで語られてきました。けれども、どれも決め手を欠いています。

確かなのは、慶長3年の春に花見を催した天下人が、その5か月後には伏見城で亡くなっていたということ。そして死の間際まで、幼い秀頼のことだけを案じていたということです。秀吉が最後に戦っていた相手は、病ではなく時間だったのかもしれません。

参考:桑田忠親『桑田忠親著作集』/『医学天正記』/『日本西教史』/『燃藜室記述』

  • URLをコピーしました!
目次