津山城跡(鶴山公園):森蘭丸の弟が十三年かけて築いた城と、七十七の櫓

津山城:織田信長の小姓森3兄弟(蘭丸・坊丸・力丸)の末弟 森忠政が居城 津山城

津山城跡は鶴山という小高い丘の全体を石垣で固めた城です。天守も櫓もすべて明治に取り壊されましたが、段々に積み上げられた石垣はそっくり残り、麓から見上げると壁が何段も重なって迫ってきます。記録によれば櫓は七十を超え、その数は姫路城を上回りました。築いたのは森可成の末子、本能寺で三人の兄を失った森忠政です。

この記事のポイント
  • 森蘭丸の弟、森忠政が十三年かけて築いた美作十八万石の城
  • 丘全体を石垣で固め、櫓の数は七十を超えたと記録される
  • 天守は破風を持たない層塔型で、装飾より合理を選んだ姿だった
  • 建物はすべて明治に取り壊され、いまは備中櫓が復元されている
目次

津山城とは:丘ごと石垣で固めた平山城

津山城は岡山県津山市の中心、吉井川に臨む鶴山に築かれています。丘の頂に本丸、一段下に二の丸、さらに下に三の丸を置き、それぞれを高い石垣で囲む造りで、下から見ると石垣が三段の壁になって立ちはだかります。高さは麓から本丸まで四十メートルを超え、姫路城や伊予松山城とならんで日本三大平山城に数えられてきました。

建物は残っていません。それでも城跡を歩く価値があるのは、石垣の配置そのものが城の設計図として読めるからです。どこに櫓が建ち、どこで道が折れ、どこから横矢が掛かるのかが、石の線を追うだけでわかります。

津山城の備中櫓と本丸

本丸に復元された備中櫓。築城四百年を機に木造で建て直され、内部を見学できる。

森忠政、三人の兄を失った末子

森家は兼山城(美濃金山城)を本拠とした一族で、当主の森可成は織田信長の重臣として姉川の戦いののち宇佐山で討ち死にしました。長男の可隆も早くに戦死し、次男の蘭丸と、坊丸・力丸の兄弟は本能寺で信長とともに果てます。残されたのが末子の忠政でした。

忠政は信濃川中島を経て、慶長8年(1603年)に美作十八万六千石余りを与えられます。当初は院庄のあたりに城を構えようとしましたが、鶴山のほうが地の利に勝ると見て計画を改め、翌年から普請を始めました。城が完成したのは元和2年(1616年)で、十三年におよぶ大工事です。あわせて城下町も整えられ、出雲街道の宿場と吉井川の水運を結ぶ町がつくられました。

破風のない天守は地味だったのか

津山城の天守は五重で、絵図や古写真から姿がよくわかっています。特徴は、屋根に飾りの破風がほとんどなかったことです。

▽ よく語られる話

津山城の天守は破風もなく飾り気がない、見栄えのしない地味な天守だった。

▼ 史実ではこうです

破風がないのは、階を規則的に積み上げていく層塔型という新しい形式を選んだからです。同じころ藤堂高虎らが手がけた天守にも同じ考え方が見られ、工期と費用を抑えながら高さを出せる合理的な設計でした。しかも城全体で見れば櫓は七十を超え、門も数多く構えられています。天守一棟の装飾ではなく、丘全体に建物を並べることで格式を示した城だったと見るほうが実情に近いでしょう。

津山城の高石垣と石段

三段に積まれた石垣のあいだを縫って石段が上がる。建物がなくても、道の折れ方から守りの意図が読み取れる。

櫓の数が語るもの

江戸時代の絵図や書上には、津山城の櫓の数がはっきり記されています。その数はおよそ七十七棟。姫路城が六十棟あまりとされることを考えると、規模の大きさが際立ちます。門も数多く、丘の斜面のあちこちで道が折れ、そのたびに櫓から横合いを狙える仕組みでした。

ではなぜ、美作十八万石の城にこれほどの構えが必要だったのでしょうか。美作は山陰と山陽をつなぐ位置にあり、出雲街道が町を貫いています。西には毛利の旧領、北には出雲、東には播磨。関ヶ原のあと、幕府が西国の大名をにらむうえでこの盆地は重要な結節点でした。忠政に与えられた仕事は領地の経営だけでなく、この道を押さえることでもあったわけです。

城下町と吉井川

忠政は城を築くのと並行して町をつくりました。城の東西に武家地を置き、出雲街道沿いに商人と職人の町を並べ、吉井川の河原に舟着き場を設けています。この川は下って岡山へ、さらに瀬戸内へつながる道で、美作の米や木材、鉄が運ばれました。中国山地では古くからたたら製鉄が行われており、その鉄も川を下っています。

町の骨格はいまも残っていて、城の東側には出雲街道に沿った城東の町並みが、西側には城西の寺町が続きます。白壁となまこ壁の家が並ぶ通りを歩けば、城が町とひとつづきに設計されていたことが体感できます。

森家の改易と、松平家の二百年

森家は忠政のあと四代続きましたが、元禄の世に当主が跡継ぎを残さないまま没し、改易となりました。一族は別家として存続しますが、津山の城は幕府に召し上げられます。その後に入ったのが、結城秀康の流れをくむ松平宣富で、以後、津山松平家が幕末まで城主をつとめました。

石高は森家の十八万六千石から松平家は十万石へと下がり、のちにさらに削られた時期もあります。それでも城の規模はそのままで、藩は維持費に苦しみながら櫓と塀を守り続けました。幕末には洋学者の箕作阮甫を輩出し、蘭学の土壌が育った町でもあります。

すべて壊された城と、よみがえった備中櫓

明治の廃城令によって、津山城の建物は天守も櫓も門も、ひとつ残らず取り壊されました。売却されて解体された建物も多く、城山には石垣だけが残ります。城跡は鶴山公園として開かれ、桜が植えられて花の名所になりました。いまでは千本を超える桜が石垣を縁取り、春には石の壁が薄紅色に包まれます。

築城四百年を機に復元されたのが備中櫓です。本丸の南西に建つこの櫓は、内部がすべて畳敷きで天井も張られており、櫓というより御殿に近いつくりでした。藩主の生活の場として使われていたことが、発掘と絵図の調査でわかっています。名は忠政の娘婿にあたる池田備中守長幸に由来すると伝えられます。

見上げた津山城の備中櫓

石垣の上にそびえる備中櫓。内部は畳敷きで、櫓というより御殿に近い造りだった。

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津山城跡(鶴山公園)・場所とアクセス

岡山県津山市山下135。JR津山駅から歩いて十分ほど、吉井川を渡ればすぐ城山の下に出ます。公園は有料で、備中櫓も同じ券で見学できます。日本100名城のスタンプは備中櫓の受付に置かれています。桜の時期は夜間も開園し、石垣がライトアップされます。岡山城とは車で一時間ほど、竹田城跡へも山を越えて行ける距離です。

津山城の復元イメージ

建ち並んでいたころの姿を描いた復元イメージ。天守を頂に、段ごとに櫓と塀が連なっていた(写真ではなく復元図です)。

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