山形城とは
山形城は、出羽を統一した戦国大名最上義光の居城である。最上氏の本拠として築かれ、慶長出羽合戦を経て五十七万石の大大名の城となり、江戸期には鳥居忠政らが入った。日本100名城第10番、国指定史跡。
本丸・二の丸・三の丸を輪郭式に配した平城で、三の丸まで含めた範囲は東北屈指の規模を誇った。現在は霞城公園として整備され、復元された二の丸東大手門がその大きさを伝えている。

復元された二の丸東大手門。橋を渡って高麗門をくぐる構えが再現されている(山形県山形市霞城町)
出羽を統一した男の城
最上氏は斯波氏の一族で、南北朝期に出羽へ入った。だが戦国期の最上家は分裂し、天童氏や上山氏といった一族が各地に割拠して、当主の力は限られていた。
それをまとめ上げたのが十一代・最上義光である。天童城を落とし、上山城を押さえ、寒河江城の寒河江氏を退け、庄内へも手を伸ばした。山形城が出羽の中心になったのは、この一代の仕事による。

二の丸を巡る水堀と石垣。東北の城としては大規模な石積みが残る
二万三千を迎え撃った城
この城の名を決定づけたのが、慶長五年(1600)の慶長出羽合戦である。城内に立つ最上義光公勇戦の像と、その案内板が、当時の状況を伝えている。

「最上義光公勇戦の像」。決戦場となる富神山へ向かって進撃する姿を表している
案内板はこう記す。慶長五年の秋九月、怒涛の如く攻め寄せた上杉方の謀将・直江山城守のひきいる二万三千余の大軍をむかえ、自ら陣頭に立って指揮奮戦し、敵を撃退してよく山形を死守した——と。

像の解説板。指揮棒の銘や台座の縁石の意味まで記されている
この二万三千を半月にわたって足止めしたのが、山形城の南西を守る長谷堂城だった。千ほどの兵で直江軍を撥ね返したあの攻防は、この城を守るための戦いである。長谷堂が破られていれば、義光はこの本丸で決戦を迎えていた。
指揮棒に刻まれた十七文字
像の案内板には、細部への言及がある。ここが面白い。
まず「右手にかざして持っているのは鉄の指揮棒で、清和天皇末葉山形出羽守有髪僧義光と刻んであります」。清和源氏の末裔を名乗り、出羽守を称し、そして「有髪僧」——髪を落とさない僧という、義光自身の署名である。武将であり、同時に仏門に身を置く者でもあると名乗った。戦国大名の自己認識が、十七文字に凝縮されている。
次に「銅像をとりまく縁石は山形城三の丸をかたどったものであります」。像の足元の敷石が、失われた三の丸の輪郭になっている。城の外郭が、像の台座として残されたということになる。
そして案内板は正直に断っている。「鎧兜は時代考証にとらわれず表現したものであります」。銅像は史実の再現ではなく、後世が抱いた義光像の造形なのだと、設置者自身が明記している。今日たどってきた案内板のなかでも、この率直さは印象に残る。
五十七万石、そして改易
合戦の後、義光は山形二十四万石から五十七万石へと加増された。上杉軍を最上領内に釘付けにした功が、関ヶ原に直接参戦した諸大名を上回ると評価されたのである。全国五位の大大名となり、山形城は東北最大級の規模へ拡張された。

二の丸の土塁と、その上に復元された多聞櫓
だが最上家は長く続かなかった。義光の死後に家中が割れ、元和八年(1622)に改易される。一代で築いた五十七万石は、一代半で失われた。大田原城の大田原氏が三百二十六年動かなかったのとは、正反対の結末である。
改易後、山形には鳥居忠政が入った。壬生城に精忠神社を建てた鳥居家——伏見城で自刃した鳥居元忠の長男が、この忠政である。元忠の子が、義光の城を継いだことになる。以後、山形は城主がめまぐるしく替わり、石高も削られていった。

東大手門の櫓門をくぐる。巨大な冠木が頭上を渡る
復元された門が伝えるもの
明治以降、城跡は陸軍の駐屯地となり、堀は埋められ土塁は削られた。現在見られる二の丸東大手門は平成三年(1991)に復元されたもので、高麗門・櫓門・続櫓・土塀が一体で再現されている。

東大手門を内側から見る。枡形に折れる構えがよく分かる
門をくぐると枡形に折れる。この曲がりが、二万三千を迎えるつもりだった城の設計思想である。臼井城が土橋を狭めて敵を絞り、児山城が小さな本丸を深い堀で囲ったのと、発想は同じだ。規模と素材が違うだけで、やろうとしていることは変わらない。
山形城の現地写真





山形城・場所・アクセス
〒990-0826 山形県山形市霞城町1-7
JR「山形駅」から徒歩約10分。山形自動車道 山形蔵王インターから車で約20分。霞城公園として開放され、駐車場がある。日本100名城 第10番。
見どころは復元された二の丸東大手門、本丸一文字門、最上義光公勇戦の像、そして水堀と石垣。園内には山形市郷土館(旧済生館本館)や県立博物館もある。春は桜の名所として知られる。
