金地院崇伝とは|佐野史郎が演じる『真田十勇士』家康の知恵袋 ─ 「黒衣の宰相」と呼ばれた僧の生涯、禁教令・方広寺鐘銘事件・武家諸法度

夕暮れの山里に並ぶ忍びや豪傑たちの一団(イメージイラスト)
この記事のポイント
  • 金地院崇伝(以心崇伝)は、家康・秀忠・家光の三代に仕えた臨済宗の僧で、「黒衣の宰相」と呼ばれました
  • 外交文書の作成、キリスト教の禁教令、武家諸法度・禁中並公家諸法度の起草などを担いました
  • 方広寺鐘銘事件の処理にも深く関わり、ドラマでは佐野史郎さんが家康の知恵袋として演じています

ドラマ『真田十勇士 SHADOWS OF THE TEN NINJA』で、佐野史郎さんが演じるのが金地院崇伝です。第1話では、徳川の忍びを滝から落として鍛え、方広寺の鐘の件で家康に知恵を授ける人物として描かれました。史実の崇伝は、家康のそばで外交や寺社の取り締まり、法律づくりを担い、その影響力の大きさから「黒衣の宰相」と呼ばれた臨済宗の僧です。ここでは、金地院崇伝の生涯と、徳川の天下づくりで果たした役割を紹介します。

目次

金地院崇伝とは

金地院崇伝は、永禄12年(1569年)に生まれ、寛永10年(1633年)に亡くなった臨済宗の僧で、正しくは以心崇伝といいます。「金地院」は、京都・南禅寺の中にある寺の名で、崇伝がここに住んだことから金地院崇伝と呼ばれるようになりました。家康、秀忠、家光の三代の将軍に仕え、外交文書の作成、寺社の取り締まり、そして武家諸法度などの法律の起草にあたり、江戸幕府の土台づくりに深く関わりました。黒い僧衣をまといながら政治の中枢にいたことから「黒衣の宰相」と呼ばれ、亡くなったあとには朝廷から本光国師の号を贈られています。

足利将軍家ゆかりの家に生まれる

崇伝は、室町幕府の足利将軍家に仕えた一色氏の家に、京で生まれました。しかし幼いころに足利将軍家が織田信長によって京を追われ、家も力を失ったため、崇伝は南禅寺に入って僧となります。学問にすぐれた崇伝は、禅寺の中でめきめきと頭角をあらわし、慶長10年(1605年)、まだ30代の若さで、京都五山の上に立つ格式の高い南禅寺の住職に就きました。

家康に招かれ、外交を担う

慶長13年(1608年)、崇伝は家康に招かれて駿府へ向かいます。それまで家康の外交文書を書いていた西笑承兌が亡くなり、その後を継ぐ人物として、学識の高い崇伝に白羽の矢が立ったのです。当時の外交文書は漢文で書かれ、禅僧の高い教養が欠かせませんでした。崇伝は朝鮮や明、ルソン、さらにはヨーロッパの国々とのやりとりの文書を手がけ、家康の対外政策を支えました。家康が晩年を過ごした駿府城については駿府城跡で紹介しています。

禁教令と方広寺鐘銘事件

崇伝の名がとくに知られているのが、慶長18年(1613年)の終わりに出された全国へのキリスト教禁止令「伴天連追放之文」を起草したことです。この禁教令によって宣教師や高山右近らが国外へ追放されました。くわしくは慶長の禁教令とはで紹介しています。

翌慶長19年(1614年)には、豊臣秀頼が再建した京都・方広寺の大仏殿の鐘に刻まれた「国家安康」「君臣豊楽」の文字が、家康の名を切り分けて呪い、豊臣家の繁栄を願うものだと問題にされる方広寺鐘銘事件が起きます。このとき崇伝は、林羅山らとともに、京の禅僧たちに鐘銘の意見を求めるなど事件の処理に深く関わり、これがやがて大坂の陣へとつながっていきました。豊臣家を追い詰めた張本人のように語られることも多い事件ですが、実際に崇伝がどこまで関わったのかについては、方広寺鐘銘事件とはで詳しく見ています。

武家諸法度と禁中並公家諸法度

大坂夏の陣で豊臣家が滅んだ直後の元和元年(1615年)、幕府は大名たちを統制するための武家諸法度と、天皇や公家のあり方を定めた禁中並公家諸法度を出しました。この二つの法の文章を起草したのも崇伝でした。城の修理を勝手にしてはいけない、大名どうしで勝手に婚姻を結んではいけない、といった武家諸法度の決まりは、その後の江戸時代を通じて大名を縛る基本の法となります。崇伝は、戦の時代が終わったあとの徳川の世を、法と文書の力で固めていった人物だったといえます。

天海との対立と紫衣事件

元和2年(1616年)に家康が亡くなると、家康をどのような神として祀るかをめぐって、崇伝は同じく家康の側近だった天台宗の僧・天海と対立しました。崇伝は「明神」として祀ることを主張しましたが、天海の主張した「権現」が採用され、家康は東照大権現として日光に祀られることになります。また寛永4年(1627年)からの紫衣事件では、幕府の許しなく高僧に紫の衣を与えた朝廷の措置を厳しく問題にし、これに抗議した大徳寺の沢庵らが流罪になりました。こうした強硬な姿勢から、崇伝は「天下の悪国師」と陰口をたたかれることもあったといわれます。

ドラマ『真田十勇士』の金地院崇伝(佐野史郎)

ドラマの崇伝は、家康(内藤剛志)の天下取りを支える側近として描かれ、第1話では、徳川の忍びを滝から落として鍛える冷酷な一面や、方広寺の鐘の件で家康に知恵を授ける場面が描かれました。史実の崇伝が外交や法律づくりで家康を支えた知恵者だったことを思うと、ドラマでも、刀ではなく策略で真田と十勇士を追い詰める存在になっていきそうです。ほかの配役は『真田十勇士』キャスト・相関図一覧にまとめています。

よくある疑問

Q. 金地院崇伝はどんな人物ですか?
A. 家康・秀忠・家光の三代に仕えた臨済宗の僧で、外交文書や武家諸法度・禁中並公家諸法度の起草、寺社の取り締まりなどを担い、「黒衣の宰相」と呼ばれました。

Q. 「金地院」とは何ですか?
A. 京都・南禅寺の中にある寺の名前です。崇伝がここに住んだことから、金地院崇伝と呼ばれます。

Q. 金地院崇伝は方広寺鐘銘事件に関わったのですか?
A. 鐘銘について京の禅僧たちに意見を求めるなど、事件の処理に深く関わったことが知られています。

Q. ドラマで金地院崇伝を演じるのは誰ですか?
A. 佐野史郎さんです。

まとめ

金地院崇伝は、足利将軍家ゆかりの家に生まれた臨済宗の僧で、家康に招かれて外交文書を担い、禁教令や武家諸法度・禁中並公家諸法度の起草、方広寺鐘銘事件の処理などを通じて、江戸幕府の土台を築いた人物です。「黒衣の宰相」と呼ばれたその知恵が、ドラマでは真田と十勇士を追い詰める策略として描かれていきます。

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