静岡市の中心に残る駿府城跡は、今川氏の館に始まり、徳川家康が三度にわたって身を置いた城です。少年時代を人質として過ごし、武田氏の滅亡で駿河を手に入れて城主となり、さらに将軍職を息子に譲ったあと、大御所としてここへ戻ってきました。隠居の城と呼ばれますが、実際の駿府は江戸と並ぶもうひとつの政治の中心で、外交も人事も貨幣もこの城から動いていたのです。
- 今川館の跡地に家康が城を築き、生涯に三度この地に暮らした
- 大御所時代の駿府は隠居所ではなく、江戸と並ぶ政治の中枢だった
- 天守は寛永の火災で焼け、以後一度も再建されなかった
- 発掘で家康時代の巨大な天守台と、その下から豊臣時代の石垣が出てきた
今川館から徳川の城へ:駿府城のはじまり
駿河の守護を代々務めた今川氏は、室町のころから駿府に館を構えていました。今川館と呼ばれたその屋敷がどこにあったかは正確にはわかっておらず、現在の駿府城公園のあたりと考えられています。駿府は京の文化を招き入れた町として栄え、連歌師や公家が下向して、東国では抜きん出た都市になっていました。掛川城や田中城といった支城が街道筋を押さえ、駿河から遠江にかけての支配を支えています。

復元された東御門。櫓門の下をくぐると二ノ丸へ入る。門と巽櫓は江戸時代の絵図や発掘の成果をもとに木造で建て直された。
今川義元と桶狭間、そして今川氏の終わり
今川義元の代に今川氏は駿河・遠江・三河をおさえ、東海に並ぶもののない勢力となります。松平竹千代、のちの家康が人質としてこの町で少年期を送ったのもこのころで、義元の軍師とも言われる太原雪斎のもとで学んだと伝えられます。永禄3年(1560年)、沓掛城から出陣した義元が大高城方面へ兵を進めた先で織田信長の急襲を受け、桶狭間に倒れました。
跡を継いだ今川氏真は求心力を取り戻せず、やがて武田信玄が駿河へ攻め入ると駿府を捨てて掛川へ逃れ、そこも開城して北条氏を頼ります。守護大名から戦国大名へと駆け上がった家が、当主一人を失ってから十年足らずで消えてしまったことになります。駿府の町も信玄の侵攻で焼かれ、今川館は姿を消しました。
家康の「隠居城」は隠居の城ではなかった
武田氏が滅んだあと駿河を与えられた家康は、天正13年(1585年)から駿府に城を築き、浜松から本拠を移します。浜松城で過ごした十七年を終え、ようやく落ち着けると思ったのも束の間、豊臣秀吉の命で関東へ移され、駿府には中村一氏が入りました。家康が三度目にこの城へ戻るのは、将軍職を秀忠に譲ったあとのことです。
大坂の陣の采配もこの城から振るわれています。豊臣家との最終的な対決に至る経緯は大坂の陣(冬・夏)の記事にまとめました。家康は元和2年(1616年)にこの城で没し、遺言に従って久能山へ葬られました。

駿府城公園に立つ家康の像。手に鷹を据えた姿は、大御所として駿府で過ごした晩年を意識したもの。
天守はどれほど大きかったのか
大御所時代の駿府城には五重の天守が建っていました。慶長12年(1607年)に完成した天守は同じ年のうちに失火で焼け、すぐに建て直されています。その天守も寛永12年(1635年)の大火で焼失し、以後は再建されないまま江戸時代を通じて天守台だけが残りました。城内の説明板にも、天守が二度の火災に遭い、明治になって陸軍の駐屯にあたって天守台が崩され堀が埋められた経緯が記されています。
近年の発掘調査は、この天守台の大きさを数字で示しました。石垣の外周はおよそ六十八メートル四方に達し、天守台としては国内でも最大級とされます。さらに驚かされたのは、その内側から一回り小さい古い天守台が現れたことでした。金箔を押した瓦をともなうその石垣は、家康が関東へ移ったあとにこの城を預かった中村一氏の時代のものと考えられており、豊臣の城の上に徳川の城が重ねられていたことになります。田中城など周辺の城でも、この時期に手が加えられた痕跡が知られています。

天守閣跡に立つ説明板。五重七階と伝わる天守の姿と、火災で失われたのちの経緯が記されている。
城下町と、大御所が呼び寄せた人々
駿府の町割は碁盤の目に整えられ、職人町や商人町が名前ごとに置かれました。今川の時代からの町に家康が手を加え、さらに大御所の御用をこなす人々が集まったことで、駿府の人口は当時の日本でも屈指の規模になったと言われます。城の周囲には三重の堀がめぐらされ、外堀の外側に町家が広がる構えでした。
ここへ集まったのは商人や職人だけではありません。儒者の林羅山、僧の金地院崇伝、そして漂着した船の航海士だったウィリアム・アダムス、日本名で三浦按針が大御所のもとに出入りし、外交や法度の起草に関わっています。南蛮の貿易船が駿河湾に姿を見せ、東南アジアへ送る朱印状がこの城で発給されました。城下町の絵図は公園の一角に石碑として置かれ、当時の町の広がりをたどることができます。

公園に置かれた駿府城下町の石碑。江戸時代の絵図をもとに、堀と町割の広がりが刻まれている。
徳川忠長と駿府藩、そして城代の時代
家康の没後、駿府には十男の徳川頼宣が入りましたが、まもなく紀伊へ移ります。次に城主となったのが二代将軍秀忠の子、三代将軍家光の弟にあたる徳川忠長でした。駿河・遠江に甲斐の一部を加えた五十五万石を与えられた大身でしたが、兄との確執や領内での乱行を理由に領地を召し上げられ、高崎に幽閉されたのち自害します。兄弟の対立を将軍の座をめぐる争いとして語る物語は多いものの、改易の直接の理由は同時代の記録のなかでも一致していません。
忠長の改易ののち、駿府は幕府の直轄となり、城代と町奉行が置かれました。将軍家にとって駿府は家康ゆかりの特別な土地であり続け、城は大名に与えられることなく幕末を迎えます。掛川城や横須賀城が譜代大名の城として続いたのとは対照的な歩みでした。
明治以降の駿府城と、いま見られるもの
幕末、最後の将軍徳川慶喜が謹慎を解かれたのちに移り住んだのも静岡でした。旧幕臣たちは静岡藩としてこの地に移され、茶の栽培に活路を求めた者も少なくありません。城跡には陸軍の連隊が置かれて内堀が埋められ、天守台の石も持ち出されて、城の姿は大きく損なわれました。
いま駿府城公園を歩くと、二ノ丸の水堀と石垣が往時の広さを伝え、巽櫓と東御門、坤櫓が木造で建て直されています。天守台の発掘現場も見学できるように整えられ、掘り出された石垣を間近に見ることができます。堀端の石垣には、各地の大名が運び込んだ石に刻まれた刻印が残っており、天下普請の跡をその目で確かめられるのもこの城の楽しみです。日本100名城のスタンプは東御門や坤櫓の受付に置かれています。
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駿府藩(静岡藩)/徳川家70万石:徳川家達 徳川宗家の存続が認められ江戸城から駿河国へ移封され立藩
駿府城の地を治めた駿府藩が、幕末をどう生きたかをまとめています。
イラストで見る武将・姫たち
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駿府城公園・場所とアクセス
旅の計画に
ここを歩くコースがあります
姉妹サイト「日本の歴史旅ガイド」に、行程・所要時間・駐車場までまとめた実走コースがあります。
1泊2日:北条の防衛線と家康終焉の地(車・1泊2日)
日帰り:大御所徳川家康の執政と不滅の聖地(車・日帰り)
静岡県静岡市葵区駿府城公園1-1。JR静岡駅北口から北へ歩いて十五分ほど、静岡鉄道の新静岡駅からも近く、市街地のただなかにあります。東御門・巽櫓と坤櫓、紅葉山庭園は有料で、それぞれ見学できます。南へ足を延ばせば久能山、東海道を西へ向かえば掛川城や高天神城があり、家康の足跡をつなげて歩けます。
【都内発】車 日帰り:大御所徳川家康の執政と不滅の聖地!駿府城・国宝久能山東照宮と日本平ドライブ
姉妹サイト「日本の歴史旅ガイド」の行程。駿府城と久能山東照宮を一日で回れます。
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