慶長の禁教令とは|ドラマ『真田十勇士』の「南蛮人の取り締まり」の背景 ─ 1614年の全国禁教と、起草した金地院崇伝(佐野史郎)

夕暮れの山里に並ぶ忍びや豪傑たちの一団(イメージイラスト)
この記事のポイント
  • 慶長の禁教令は、江戸幕府がキリスト教を禁じた命令で、1612年に幕府直轄地へ、1614年1月に全国へ出されました
  • 全国への禁教令「伴天連追放之文」を起草したのは、家康の側近の僧・金地院崇伝です
  • 取り締まりの中心はカトリックの南蛮人で、プロテスタントのイギリスやオランダとの貿易は続けられました

ドラマ『真田十勇士 SHADOWS OF THE TEN NINJA』では、イギリス人の鉄砲商人・筧十蔵(ジョエル・ディカーソン)が、家康による「南蛮人の取り締まり」から逃れる途中で猿飛佐助と出会うとされています。この取り締まりの背景にあるのが、ドラマの舞台と同じ1614年ごろに江戸幕府が全国に出した「慶長の禁教令」です。しかもその命令の文章を書いたのは、ドラマで佐野史郎さんが演じる金地院崇伝でした。ここでは、慶長の禁教令とは何だったのかを、わかりやすく紹介します。

目次

慶長の禁教令とは

慶長の禁教令は、江戸幕府がキリスト教の信仰と布教を禁じた命令で、まず慶長17年(1612年)に幕府の直轄地と家臣たちに向けて出され、翌慶長18年12月(西暦では1614年1月)には、全国に向けて禁教が命じられました。この全国の禁教令によって、宣教師は国外に追放され、教会は壊され、信者たちには信仰を捨てることが求められるようになります。豊臣秀吉も天正15年(1587年)にバテレン追放令を出していましたが、南蛮貿易は続けたため取り締まりは徹底されず、本格的な禁教はこの慶長の禁教令から始まったといえます。秀吉の追放令については秀吉はなぜバテレン追放令を出したのかで紹介しています。

きっかけは岡本大八事件

行灯の明かりの座敷で、大名が役人風の武士に金の包みと書状を差し出す密談のイメージイラスト
旧領を取り戻せるよう取りはからうと持ちかけ、有馬晴信から金品をだまし取った岡本大八事件のイメージ(イラスト)

禁教が強められるきっかけとなったのが、慶長17年に起きた岡本大八事件です。家康の側近の本多正純の家臣で、キリシタンだった岡本大八が、同じくキリシタン大名の有馬晴信から、旧領を取り戻せるよう取りはからうと持ちかけて多額の金品をだまし取った事件で、大八は処刑され、晴信も流罪ののち死を命じられました。幕府の中枢にまでキリシタンが入り込み、こうした不正が起きたことが、家康にキリスト教への警戒を強めさせたと考えられています。

禁教令の文章を書いた金地院崇伝

慶長18年の全国への禁教令は「伴天連追放之文(ばてれんついほうのぶん)」と呼ばれ、その文章を起草したのが、家康の側近の僧・金地院崇伝でした。崇伝は外交文書や寺社の取り締まりにも深く関わった人物で、のちには武家諸法度などの起草にも携わり、その影響力の大きさから「黒衣の宰相」と呼ばれました。ドラマでも、家康のそばで天下取りの知恵をめぐらせる人物として描かれていて、方広寺鐘銘事件にも関わったとされます。鐘銘事件については方広寺鐘銘事件とはで紹介しています。崇伝の生涯は金地院崇伝とはで紹介しています。

高山右近らの国外追放

高山右近は、摂津国の高槻城主として知られたキリシタン大名で、洗礼名をジュストといいました。織田信長や豊臣秀吉に仕えて戦功をあげ、天正13年(1585年)には播磨国の明石に6万石を与えられて船上城に移りましたが、天正15年(1587年)に秀吉がバテレン追放令を出すと、信仰を捨てることを拒んで領地を没収されます。その後は加賀の前田家に身を寄せて金沢で暮らしていましたが、慶長の禁教令によって、ついに日本を離れることになったのです。

高槻に立つ高山右近の像
高山右近の像(大阪府高槻市)。右近は高槻城主として城下にキリシタンの教えを広めました
高槻城跡公園の池と太鼓橋、石垣
右近が城主をつとめた高槻城の跡(高槻城跡公園)
明石城の巽櫓と石垣
明石城(兵庫県明石市)。右近が治めた船上城は、のちにこの明石城が築かれるときに廃され、資材が使われたと伝えられています

全国への禁教令が出された1614年の秋には、宣教師たちとともに、キリシタン大名として知られた高山右近らが長崎から国外へ追放されました。右近はマニラに渡り、翌年その地で亡くなっています。こうして日本のキリシタンは、表立って信仰を続けることができなくなり、やがて潜伏して信仰を守る人びとが生まれていきました。ちょうど同じ年の冬には大坂冬の陣が起き、豊臣方の大坂城には、行き場を失ったキリシタンの武士たちも少なからず集まったと伝えられています。大坂城に集まった浪人については大坂城に浪人はなぜ十万人も集まったのかをご覧ください。

イギリス人やオランダ人は取り締まられたのか

ここで気になるのが、ドラマの筧十蔵のようなイギリス人の扱いです。当時「南蛮人」と呼ばれたのは、おもにカトリックのポルトガル人やスペイン人で、宣教師の布教と貿易が一体になっていました。一方、イギリスやオランダはプロテスタントの国で、布教をせずに貿易だけを求めたため、家康は両国との取引を認め、1613年には平戸にイギリス商館も開かれています。家康の外交顧問となった三浦按針(ウィリアム・アダムス)もイギリス人でした。つまり史実では、禁教令の取り締まりの中心はカトリックの南蛮人で、イギリス人の商人がそのまま追われる立場だったわけではありません。ドラマの十蔵が追われる設定は、こうした時代の空気をもとにしたアレンジといえます。十蔵については筧十蔵はイギリス人だったのかで紹介しています。

よくある疑問

Q. 慶長の禁教令はいつ出されましたか?
A. 慶長17年(1612年)に幕府の直轄地へ、慶長18年12月(西暦1614年1月)に全国へ出されました。

Q. 禁教令を書いたのは誰ですか?
A. 全国への禁教令「伴天連追放之文」は、家康の側近の僧・金地院崇伝が起草しました。

Q. 禁教令でイギリス人も追放されたのですか?
A. 取り締まりの中心は、布教を行ったカトリックのポルトガル人やスペイン人でした。プロテスタントのイギリスやオランダは、貿易を続けることを認められていました。

まとめ

慶長の禁教令は、岡本大八事件をきっかけに強められ、1614年には全国に広げられた江戸幕府のキリスト教禁止令で、その文章は金地院崇伝が書きました。宣教師や高山右近らが国外に追放されたこの年は、大坂の陣が始まった年でもあり、ドラマの南蛮人の取り締まりも、こうした時代の動きを映したものといえます。

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