天正15年の豊臣秀次は何をしていたのか|九州攻めには行かず京都の留守居に ─ 20歳の「近江中納言」と北野大茶湯

八幡山城/アクセス・場所・地図 安土城の遺構を多く取り入れた豊臣秀次の居城 八幡山城
この記事のポイント
  • 天正15年(1587)の秀次は20歳。近江八幡山城を本拠に、宿老の分も含めて43万石ともいわれる大領を治める大名でした
  • この年の九州攻めに、秀次は出陣していません。秀吉の名代として京都の留守を預かり、前田利家がそれを補佐しました
  • 前年の天正14年11月には豊臣の姓を与えられて参議となり、この年の11月22日には権中納言に進みます。「近江中納言」と呼ばれるのはここからです
  • 叔父の秀長が九州で総大将を務めたのに対し、秀次は都を守る役でした。秀吉の身内として、二人が別々の大役を担った年だったのです

大河ドラマ『豊臣兄弟!』第42回「北野大茶湯」では、聚楽第の完成を祝う大茶会を秀次(山田涼介)が言い出し、秀長が「まだ早い」と諫めるという流れになるようです。では史実の天正15年、秀次はどこで何をしていたのでしょうか。この記事では、九州攻めのあいだの秀次の役目と、近江の大名としての姿を整理します。2年後の秀次については天正17年の豊臣秀次は何をしていたのかで紹介しています。

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天正13年〜16年の秀次

年 秀次のできごと
天正13年(1585) 紀州攻め・四国攻めで活躍。近江八幡山城を本拠に43万石(本人の分は20万石)を与えられる
天正14年(1586)春ごろ 右近衛権中将になる
天正14年11月25日 豊臣の姓を与えられ、参議になる
天正15年(1587)春〜夏 九州攻めには出陣せず、秀吉の名代として京都の留守を預かる。前田利家が補佐
天正15年11月22日 従三位・権中納言になる(近江中納言)
天正16年(1588)4月 聚楽第行幸。誓いの文書に、家康・信雄・秀長に次ぐ4番目に署名する

九州攻めには行かず、京都の留守居に

天正15年の春、秀吉と秀長は約20万の大軍を率いて九州へ向かいました。このとき秀次は出陣していません。秀吉の名代として京都に残り、留守を預かる役目を命じられたのです。補佐についたのは、秀吉の古くからの友・前田利家でした。

天下人が数か月も都を離れるあいだ、朝廷とのやりとりや、京の治安、上方の大名の動きに目を配る者が必要でした。その役を、秀吉は20歳の甥に任せたことになります。2年前の天正12年、小牧・長久手の戦いで大敗して秀吉に厳しく叱られた秀次ですが(豊臣秀次はなぜ「三好信吉」と名のっていたのか)、四国攻めでの働きを経て、ここでは秀吉の身代わりを務めるまでの立場になっていました。

よく語られる話

秀次は頼りないので、大事な九州攻めから外された。

史実ではこうです

秀次は外されたのではなく、秀吉の名代として都を預かる大役を任されていました。秀吉が戦場にいるあいだ、本拠の上方を空にするわけにはいかなかったのです。ベテランの前田利家を補佐につけたところに、秀吉の慎重さも見えます。

近江八幡の大名として

秀次の本拠は、琵琶湖の東にある八幡山城です。秀次は城下に町を開き、琵琶湖とつながる八幡堀を整えて、商人を呼び集めました。いまに残る近江八幡の町並みは、この町づくりがもとになっています。

領国には、秀吉がつけた宿老たちがいました。田中吉政・中村一氏・堀尾吉晴・山内一豊らです。若い秀次の領国経営は、こうした経験豊かな家臣たちに支えられていました。秀次が九州攻めのあいだ京都にいられたのも、領国を任せられる宿老たちがいたからでしょう。

「近江中納言」へ ─ 秀長に次ぐ身内として

天正15年8月、九州攻めから戻った秀長は大納言になり、「大和大納言」と呼ばれるようになります。そして11月22日、秀次も従三位・権中納言に進みました。こちらは「近江中納言」です。

大納言の秀長と、中納言の秀次。官位の上でも、秀吉の身内は弟の秀長が一番、甥の秀次が二番という並びがはっきりしました。翌年の聚楽第行幸で、大名たちが誓いの文書に名前を連ねたときも、秀次は家康・織田信雄・秀長に次ぐ4番目でした(聚楽第行幸とは)。

北野大茶湯と秀次

ドラマでは秀次が大茶会を言い出すようですが、北野大茶湯を秀次が提案したことを示す記録は見当たりません。秀次が北野大茶湯で何をしていたかも、はっきりした記録は残っていないようです。北野大茶湯を取り仕切ったのは秀吉と、千利休・津田宗及・今井宗久の三人の茶頭でした(北野大茶湯とは)。叔父の秀長もまた、記録に名前が見えません(秀長は北野大茶湯で何をしていたのか)。

ただ、秀次は茶の湯や和歌、古典を好んだ教養人としても知られます。のちに関白となってからは、多くの公家や文化人と交わりました。北野大茶湯を言い出す役に秀次が選ばれたのは、こうした文化好きの一面を踏まえたものかもしれません。

このあとの秀次

天正17年、秀吉に鶴松が生まれると、跡継ぎ候補としての秀次の立場は揺らぎます。ところが天正19年に鶴松が3歳で亡くなり、秀次は秀吉の養子となって関白を継ぎ、聚楽第の主となりました(聚楽第とは)。しかし文禄2年に秀頼が生まれると、4年後の文禄4年、秀次は切腹へと追いこまれます。天正15年の「留守居」は、秀次が秀吉の身代わりを任されるようになった、その始まりの一年でした(秀吉の養子たち:関係図でみる後継ぎ候補)。

よくある疑問

Q. 天正15年、秀次は何歳でしたか?
A. 永禄11年(1568)の生まれなので、数え年で20歳です。

Q. 秀次は九州攻めに行ったのですか?
A. いいえ。秀吉の名代として京都の留守を預かり、前田利家が補佐しました。

Q. 「近江中納言」と呼ばれたのはいつからですか?
A. 天正15年11月22日に権中納言になってからです。

Q. 北野大茶湯を言い出したのは秀次ですか?
A. ドラマではそう描かれるようですが、史実で秀次が提案したことを示す記録は見当たりません。

参考:『国史大辞典』「豊臣秀次」、藤田恒春『豊臣秀次』ほか

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