天正14年(1586)、秀吉に臣従した家康は、すぐに大きな役目を任されました。関東と奥羽(東北)の大名どうしの争いをやめさせ、豊臣政権の秩序に組み込む「関東・奥両国惣無事」の取りまとめです。結論からいうと、秀吉は臣従直後の天正14年11月4日、上杉景勝への書状で「関東のことは家康とよく相談せよ、諸事を家康に任せた」と伝えています。北条の同盟相手である家康に交渉を、上杉に軍事の押さえを担わせる分担でした。そしてこの役目の先に、家康の関東移封が待っていました。
- 惣無事とは、大名どうしの私的な戦をやめさせ、領地の争いを豊臣政権の裁きにゆだねさせる政策
- 秀吉は臣従直後の家康に関東・奥羽の取りまとめを任せた。交渉は家康、軍事の押さえは上杉景勝
- 家康は北条に上洛をすすめ、沼田の領地争いの裁きにも関わったが、北条は小田原攻めで滅ぶ
- 北条の旧領を与えられたのは家康だった。関東の取りまとめ役が、関東の主になった
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「惣無事」とは何か
惣無事の「無事」は、争いのない平和な状態のことです。戦国時代の大名は、領地の境目をめぐって互いに戦を続けていました。秀吉はこれをやめさせ、領地の争いは豊臣政権が裁くという形にしようとしました。九州では天正13年に島津と大友へ停戦を命じています(九州停戦令(惣無事令)とは)。豊臣政権の一連の政策は豊臣平和令とはにまとめています。
関東と奥羽では、北条氏が勢力を広げ、佐竹・宇都宮・結城などの大名や国衆とぶつかっていました。奥羽でも伊達・蘆名・最上などが争っていました。秀吉にとって、この東国をどう落ち着かせるかは天下統一の大きな課題でした。
家康はもともと関東の「無事」に関わっていた
実は家康は、秀吉に臣従する前から関東の争いに関わっていました。天正10年、本能寺の変のあと甲斐・信濃をめぐって北条と戦った家康は、やがて北条と和睦し、娘の督姫を北条氏直に嫁がせて同盟を結びます。このとき家康は、関東の諸将に戦をやめるよう呼びかける立場にも立ちました。家康のこの動きを「惣無事」の始まりとみる研究者もいます。督姫については督姫とは、天正14年春の家康と北条氏政の会見は家康と北条氏政の会見(天正14年)で書いています。
秀吉も早くから、家康を通じて関東の争いを収めようとしていました。天正11年には家康に関東の交渉を進めるよう求める書状を送っています。しかし翌年、秀吉と家康が小牧・長久手で戦ったことで、この話はいったん途切れました。
天正14年11月4日、秀吉は「家康に任せた」
家康が大坂で臣従したのは天正14年10月27日です。そのわずか1週間後の11月4日、秀吉は上杉景勝に書状を送り、関東のことは家康とよく相談するよう命じ、諸事を家康に任せたと伝えました。家康は臣従してすぐに、豊臣政権の東の窓口になったのです。臣従で家康が得たものは臣従した家康は何を得たのかでもまとめています。

この書状からは、家康と景勝の役割の分け方が読み取れます。研究者の中には、交渉は家康、いざというときの軍事は景勝、という分担だったとみる人がいます。景勝は家康より先、天正14年6月に上洛して秀吉に臣従していました(秀吉に臣従した大名はいつ上洛したのか)。
| 役目 | 理由 | |
|---|---|---|
| 徳川家康 | 北条や関東・奥羽の大名との交渉、取りまとめ | 北条の同盟相手で、娘婿が当主の氏直。関東の事情にも通じていた |
| 上杉景勝 | 交渉がうまくいかないときの軍事の押さえ | 北条と長く対立し、関東の反北条の大名ともつながりがあった |
| 秀吉 | 最終的な裁き。従わない者を攻める | 関白として天下の争いを裁く立場 |
なぜ秀吉は家康を選んだのか
家康が選ばれた一番の理由は、北条との近さです。北条の当主・氏直は家康の娘婿でした。北条に上洛をすすめるにも、北条の言い分を聞くにも、家康ほどふさわしい人物はいませんでした。
もう一つは、家康を豊臣政権の仕事に組み込むことそのものに意味があったからです。小牧・長久手で秀吉と戦った家康が、今度は秀吉の名のもとで関東を取りまとめる。それは、家康が豊臣政権の一員になったことを、東国の大名たちに見せることにもなりました。家康の国力については臣従したころ、家康と秀吉の国力の差をどうぞ。

家康は北条をどう動かそうとしたのか
家康は北条に、秀吉のもとへ上洛するよう繰り返しすすめました。北条は天正16年8月、一族の北条氏規を京へ送り、ひとまず秀吉への礼を示します(北条氏規とは)。
残る大きな問題が、上野の沼田の領地でした。沼田は真田と北条が争っていた土地で、秀吉は天正17年、沼田の3分の2を北条に、3分の1を真田に与える裁きを下します。ところが同じ年の秋、北条方が真田方の名胡桃城を奪う事件が起きました。秀吉はこれを惣無事に背いたとして、北条を攻めることを決めます。沼田の問題は徳川と真田がもめた沼田はどんな土地だったのかと家康はなぜ真田に替地を出したのに断られたのかで書いています。
「惣無事令」は本当にあった法令なのか
教科書などでは「惣無事令」という言葉がよく使われます。しかし、これがひとつの法令として全国に出されたのかについては、研究者のあいだで議論があります。
関東の取りまとめ役が、関東の主になった
天正18年、小田原攻めで北条は滅びました。その旧領を与えられたのは家康です。家康は東海の5か国を離れ、関東に移りました。家康が本拠を移していった流れは家康の本拠はなぜ岡崎・浜松・駿府・江戸と変わったのかで書いています。
筆者は、天正14年11月に関東を任されたことが、家康にとって大きな転機だったと考えています。北条との交渉役として関東の大名たちとつながり、その事情を誰よりも知る立場になりました。北条が滅んだあと、関東をまとめられるのは家康しかいなかったのです。秀吉は家康を東海から引き離すつもりで関東に移したとも言われますが、家康にとっては、のちに江戸幕府を開く土台を手に入れたことになりました。家康の野望の芽は、この役目の中で育っていったのかもしれません。
第41回は家康の上洛と臣従が中心になる見込みです。臣従した家康に秀吉が「関東のことは任せる」と言葉をかけ、のちの北条攻めや関東移封への伏線を張る場面があるかもしれません。家康の野望については「家康の野望」とは何か?で予想しています。
よくある質問
Q. 関東・奥両国惣無事とは何ですか?
A. 関東と奥羽の大名どうしの争いをやめさせ、領地の争いを豊臣政権の裁きにゆだねさせる秀吉の政策です。天正14年、秀吉はこの取りまとめを家康に任せました。
Q. なぜ家康が関東を任されたのですか?
A. 北条の当主・氏直が家康の娘婿で、北条と最も近い大名だったからです。家康は天正10年ごろから関東の争いの調停にも関わっていました。
Q. 惣無事令は法令だったのですか?
A. 研究者のあいだで議論があり、一度に出された法令というより、相手ごとに書状で命じた政策とみる見方が強まっています。
まとめ
秀吉は臣従した家康に、関東・奥羽の大名の争いを収める取りまとめを任せました。天正14年11月4日の書状が示すように、交渉は北条と近い家康、軍事の押さえは上杉景勝という分担でした。家康は北条に上洛をすすめましたが、沼田をめぐる争いから北条は小田原攻めで滅び、その旧領は家康に与えられます。関東の取りまとめ役が、そのまま関東の主になったのです。
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参考:「関東・奥両国惣無事」をめぐる研究論文(学習院大学)、藤木久志『豊臣平和令と戦国社会』、上杉家・徳川家の文書

