戦国大名は本拠を移したのか|信長・家康の「動く型」と、謙信・信玄・北条の「動かない型」 ─ 勝頼の新府城と小田原の最期

この記事のポイント
  • 戦国大名の本拠の置き方には、攻める先へ本拠ごと移っていく「動く型」と、生まれた国の本拠を動かさない「動かない型」がありました
  • 動く型の代表は織田信長で、那古野・清須・小牧山・岐阜・安土と本拠を前へ前へと移しました。秀吉と家康も、この型を受け継いでいます
  • 動かない型の代表は、春日山の上杉謙信、甲府の武田信玄、五代にわたって小田原を本拠とした北条家です。領国が広がっても、本拠は生まれた国から動かしませんでした
  • 武田勝頼の新府城は、長篠の敗戦のあと守りを固めるために築いた例外的な移転で、完成から数か月で自ら火を放って捨てることになりました

戦国大名は、本拠をどこに置いたのか。並べてみると、攻める先へ本拠ごと移っていく大名と、生まれた国の本拠を最後まで動かさない大名がいたことがわかります。前者の代表が織田信長、後者の代表が上杉謙信・武田信玄・北条家です。この記事では、両者を比べながら、その違いが何から生まれたのかを考えます。家康の本拠の移り変わりは家康の本拠はなぜ岡崎・浜松・駿府・江戸と変わったのかで詳しく書いています。

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動く型と動かない型を一覧で

おもな大名の本拠の移り方を表にまとめます(北条五代100年の歴史)。

大名 型 本拠の移り変わり
織田信長 動く 那古野 → 清須 → 小牧山 → 岐阜 → 安土
豊臣秀吉 動く 長浜 → 姫路 → 大坂 → 聚楽第(京) → 伏見
徳川家康 動く(途中から動かされる) 岡崎 → 浜松 → 駿府 → 江戸 → 駿府
上杉謙信 動かない 春日山(越後)
武田信玄 動かない 躑躅ヶ崎館(甲府)
北条家 動かない 小田原(氏綱から氏直まで)
武田勝頼 例外 躑躅ヶ崎館 → 新府城(数か月で放棄)

動く型 ─ 信長は本拠ごと前へ出た

信長は、尾張の那古野城から清須城へ移って尾張をまとめ、美濃攻めのために永禄6年(1563)には小牧山に城を築いて移りました。美濃を取ると稲葉山城を岐阜城と改めて本拠とし、天正4年(1576)からは近江に安土城を築きます。攻める相手に近い場所に本拠を進め、家臣たちも城下に住まわせることで、すばやく大軍を動かせるようにしたのです(小牧山城跡、岐阜城、安土城跡)。

この型は、秀吉と家康に受け継がれました。秀吉は長浜・姫路と前線の城を本拠とし、天下を取ると大坂城、さらに京の聚楽第と伏見へ移ります。家康も、武田との最前線の浜松へ本拠を進めました。

動かない型 ─ 謙信・信玄・北条

上杉謙信は、関東や北陸へ何度も兵を出しながら、本拠は生涯、越後の春日山城から動かしませんでした。武田信玄も、信濃・駿河・西上野へと領国を広げましたが、本拠は父・信虎が築いた甲府の躑躅ヶ崎館のままです。北条家は、二代目の氏綱が小田原を本拠と定めてから、五代・氏直まで小田原を動きませんでした(躑躅ヶ崎館跡、小田原城)。

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謙信が生涯本拠とした春日山城の跡(春日山城跡)

動かなかった理由として考えられるのは、本拠の国そのものが力の源だったことです。謙信も信玄も北条も、本拠の国の国衆や家臣団にささえられていました。本拠を遠くへ移せば、その土台から離れることになります。また、春日山や小田原は、守りに強い要害の地でもありました。

▽ よく語られる話
信玄は「人は城、人は石垣」と言い、城を築かずに人を頼りにしたので、本拠も動かさなかった。
▼ 史実ではこうです
「人は城、人は石垣、人は堀」は江戸時代の『甲陽軍鑑』に見える言葉で、信玄が本当に言ったかはわかりません。また、躑躅ヶ崎館の背後には詰めの城として要害山城があり、信玄が守りを軽く見ていたわけではありません。本拠を動かさなかったのは、甲斐という国そのものが武田家の土台だったからと考えるのが自然です。

北条家はなぜ小田原を動かなかったのか

北条家の祖・伊勢宗瑞(北条早雲)は、駿河の興国寺城から始まり、伊豆を取ると韮山城に移った、むしろ動く型の人でした。小田原を本拠としたのは子の氏綱で、氏綱は古河公方から関東管領に任じられたとされます。しかし本拠は、関東の西の端、箱根のふもとの小田原のままでした(興国寺城跡、韮山城)。

小田原は、町ごと堀と土塁で囲む総構えまで備えた、守りにきわめて強い城です。しかし天正18年(1590)、秀吉の大軍に囲まれると、関東各地の支城との連絡を断たれ、身動きがとれなくなりました。関東の真ん中から遠い本拠は、守りには強くても、天下人を相手にした戦いでは弱点にもなったのです(小田原征伐で北条氏政はなぜ降伏しなかったのか)。

例外 ─ 勝頼の新府城

武田家で本拠を動かしたのは、信玄の子・勝頼でした。長篠の戦いで敗れたあと、織田・徳川の攻勢に備えて、天正9年(1581)、甲府の西の韮崎に新府城を築いて移ります。しかし翌年、織田軍が攻め入ると、勝頼は完成からわずか数か月の新府城に自ら火を放って逃れ、まもなく武田家は滅びました(新府城跡)。

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勝頼が築き、わずか数か月で自ら火を放った新府城の跡(新府城跡)

攻める先へ出ていく信長の移転とは違い、勝頼の移転は守りを固めるための後ろ向きの移転でした。そして本拠を移したことで、甲府に根を張っていた家臣団や国衆との結びつきが弱まったともいわれます。動かない型の家が本拠を動かしたとき、その土台が揺らいだのです。

二つの型を分けたもの

動く型の信長・秀吉・家康に共通するのは、家臣を土地から離して城下に集め、主君の命令ひとつでどこへでも移れる家臣団をつくろうとしたことです。それは、のちの兵農分離や大名の国替えにつながっていきます。一方、動かない型の大名は、本拠の国の国衆や家臣団と結びついて力を保ちました。どちらが優れていたというより、大名の力の源がどこにあったのかが、本拠の置き方に表れていたといえるでしょう(太閤検地と刀狩とは)。

よくある質問

Q. 織田信長は本拠を何回移しましたか?
A. 那古野・清須・小牧山・岐阜・安土と、生涯で本拠を移し続けました。

Q. 上杉謙信の本拠はどこですか?
A. 越後の春日山城で、生涯動かしませんでした。

Q. 武田信玄はなぜ本拠を移さなかったのですか?
A. 甲斐の国そのものが武田家の土台だったためと考えられます。本拠は甲府の躑躅ヶ崎館のままでした。

Q. 北条家はいつから小田原を本拠にしたのですか?
A. 二代目の氏綱の代からです。五代・氏直まで小田原を本拠としました。

まとめ

戦国大名には、攻める先へ本拠ごと移っていく信長・秀吉・家康の「動く型」と、生まれた国の本拠を動かさない謙信・信玄・北条の「動かない型」がありました。動く型は家臣を城下に集めて身軽に動ける家臣団をつくり、動かない型は本拠の国の国衆との結びつきに力の源を置きました。勝頼の新府城や北条家の小田原の最期は、その型の強さと弱さの両方を物語っています。天下を取ったのが「動く型」の三人だったことは、時代の流れを象徴しているのかもしれません。

参考:太田牛一『信長公記』/『甲陽軍鑑』/黒田基樹『戦国北条五代』星海社新書/平山優『武田氏滅亡』角川選書

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