旭姫(朝日姫)の生涯|44歳で家康に嫁いだ秀吉の妹 ─ 前夫・輿入れに付き従った武将・駿河御前・48歳の最期

東海道を進む旭姫の花嫁行列のイメージイラスト
この記事のポイント
  • 旭姫(あさひひめ、朝日姫とも)は、豊臣秀吉と秀長の妹です。天文12年(1543)に尾張で生まれました
  • 天正14年(1586)、すでに夫がいたにもかかわらず秀吉に離縁させられ、数えで44歳のとき、徳川家康の正室として浜松へ嫁ぎました
  • 輿入れには浅野長政・富田知信・津田四郎左衛門・滝川儀太夫らが付き従い、織田長益(有楽斎)や滝川雄利も加わった、150人余りの花嫁行列だったと伝わります
  • 家康が駿府に移ってからは「駿河御前」と呼ばれました。母・大政所の病を見舞って上洛したのち、天正18年(1590)1月14日、聚楽第で亡くなりました。48歳でした

旭姫は、天下人・豊臣秀吉の妹として生まれ、兄の天下取りのために人生を大きく変えられた女性です。『豊臣兄弟!』では倉沢杏菜さんが「あさひ」を演じ、第40回「あさひの輿入れ」で物語の中心に立ちます。この記事では、旭姫の生涯を、最初の結婚から家康への輿入れ、付き従った武将たち、駿府での暮らし、そして最期まで、ひとつにまとめて紹介します。

東海道を進む旭姫の花嫁行列のイメージイラスト
旭姫の輿入れのイメージ。150人余りの行列が浜松をめざしました(イメージイラスト)
目次

生まれと家族 ─ 秀吉・秀長の妹

旭姫は天文12年(1543)、尾張国中村(名古屋市中村区)で生まれました。母は「なか」(のちの大政所)で、兄に秀吉、秀長、姉に「とも」(のちの日秀尼、豊臣秀次の母)がいます。秀吉とは6歳、秀長とは3歳ほど離れた末の妹でした。父は竹阿弥とされますが、きょうだいの父親が誰だったかには諸説があります(豊臣秀長の出世と石高の推移、父の違う四人のきょうだい)。母の大政所については大政所(なか)とはで紹介しています。

最初の夫は誰か ─ 副田甚兵衛と佐治日向守

旭姫は家康に嫁ぐ前、すでに別の男性の妻でした。その夫が誰だったかについては、二つの説があります。一つは秀吉の家臣・副田甚兵衛吉成とする説、もう一つは佐治日向守とする説です。佐治日向守は、旭姫を離縁させられたあと自害したという話も伝わりますが、確かな史料は見つかっていません。

『豊臣兄弟!』では、前原瑞樹さんが演じる「甚助」があさひの夫として登場しています。甚助のモデルとされる副田吉成の石高や、離縁のあとの暮らしは甚助(副田吉成)とはでくわしく書いています。

離縁と縁組 ─ 兄・秀吉の決断

天正13年(1585)の暮れ、天正地震で家康攻めをあきらめた秀吉は、家康を武力ではなく縁組で従わせる道を選びます。そのために差し出されたのが、妹の旭姫でした。秀吉は旭姫を夫と離縁させ、前夫には五百石の扶持を与えたと伝わります。

このとき旭姫は数えで44歳。家康は45歳でした。家康の正室だった築山殿は天正7年(1579)に亡くなっており、正室の座は空いていました(徳川家康の妻たち一覧)。縁組を言い出したのが秀吉と家康のどちらだったのかは旭姫の縁組は家康が求めたのか、秀吉が申し出たのかで考えています。

輿入れ ─ 付き従った武将たちと150人の行列

天正14年(1586)4月、旭姫は大坂城を出発しました。5月に京を発って東海道を下り、11日に三河の西野に着き、14日に浜松に入って家康との婚礼をあげました。

大名の娘や姉妹が嫁ぐときには、嫁ぎ先との連絡役や身の回りの世話をする家臣が付き従うのが普通です。旭姫の輿入れにも、秀吉の信頼の厚い武将たちが付けられました。

付き従った人物 どんな人か
浅野長政(長吉) 秀吉の正室・寧々の義弟で、秀吉の最も身近な一門衆。のちの五奉行
富田知信(一白) 秀吉の側近で、徳川家との交渉役を務めた外交担当の武将
津田四郎左衛門 秀吉の家臣。行列の差配にあたったとされる
滝川儀太夫 秀吉の家臣。行列に加わったとされる
織田長益(有楽斎) 信長の弟。織田信雄に仕え、豊臣と徳川の和睦の仲介にも関わった
滝川雄利 織田信雄の重臣。信雄方として和睦の取りまとめにあたった

行列は150人余りにのぼったと伝わります。秀吉の一門と、徳川との交渉にあたってきた武将、そして和睦を仲介した織田信雄の側の人物がそろっているところに、この輿入れが単なる婚礼ではなく、豊臣と徳川の和睦の儀式だったことがよく表れています。

▽ よく語られる話
旭姫は、身の回りの侍女だけを連れて、ほとんど一人で敵地の浜松へ送り込まれた。
▼ 史実ではこうです
輿入れには浅野長政・富田知信ら秀吉の重臣が付き従い、150人余りの行列が組まれたと伝わります。ただ、婚礼のあと付き従った武将たちの多くは上方へ戻ったと考えられ、旭姫が浜松・駿府で心細い暮らしを送ったことは想像に難くありません。

大政所の人質と、家康の上洛

旭姫が嫁いでも、家康はすぐには上洛しませんでした。そこで秀吉は、同じ年の10月、今度は母の大政所を、旭姫を見舞うという名目で三河の岡崎へ送ります。実の母を人質に差し出したのです。家康はようやく上洛を決め、10月27日、大坂城で秀吉に臣従の礼をとりました。大坂での家康は、秀長の屋敷に泊まっています(家康はなぜ秀吉に臣従したのか)。秀吉が母と妹を差し出した理由は旭姫と大政所でくわしく書きました。

駿河御前 ─ 駿府での暮らし

天正14年の暮れ、家康は本拠を浜松から駿府(静岡市)へ移しました。旭姫も駿府に移り、「駿河御前」と呼ばれるようになります。家康とのあいだに子はありませんでした。

最期 ─ 聚楽第で48歳で亡くなる

天正16年(1588)、母の大政所が病に倒れると、旭姫は見舞いのために上洛しました。9月にはいったん駿府へ戻ったとされますが、その後ふたたび京に上り、天正18年(1590)1月14日、聚楽第で亡くなりました。数えで48歳、家康に嫁いでからわずか4年後のことでした。

墓は、京都の東福寺南明院と、駿府(静岡市)の瑞龍寺にあります。法名の「南明院殿」にちなんで、東福寺の塔頭は南明院と呼ばれています。旭姫が亡くなった天正18年は、秀吉が北条家を攻めた年でもありました(小田原征伐)。

年 旭姫の年齢(数え) できごと
天文12年(1543) 1歳 尾張国中村で生まれる
天正13年(1585) 43歳 天正地震。秀吉が家康攻めをやめ、縁組の方針へ
天正14年(1586)4〜5月 44歳 夫と離縁。大坂を発ち、5月14日に浜松で家康と婚礼
天正14年(1586)10月 44歳 母の大政所が岡崎へ。家康が大坂で秀吉に臣従
天正14年(1586)暮れ 44歳 家康とともに駿府へ移り「駿河御前」と呼ばれる
天正16年(1588) 46歳 大政所の病を見舞って上洛
天正18年(1590)1月14日 48歳 聚楽第で死去
▷ 大河ドラマではどう描かれるか(放送前の予想)
『豊臣兄弟!』第40回「あさひの輿入れ」は10月18日(日)放送予定です。家康(松下洸平)、あさひ(倉沢杏菜)。第40回では、すでに夫のいるあさひが、和睦の条件として家康のもとへ嫁ぐことになると伝えられています。兄の秀吉と秀長が、妹の暮らしと天下のどちらを選ぶのかが見どころです。放送後にこの枠を更新します。

旭姫についてよくある質問

Q. 旭姫は何歳で家康に嫁いだのですか?
A. 天正14年(1586)、数えで44歳のときです。家康は45歳でした。

Q. 旭姫は何歳で亡くなったのですか?
A. 天正18年(1590)1月14日、数えで48歳で、聚楽第で亡くなりました。家康に嫁いでから4年後です。

Q. 旭姫の輿入れに付き従った武将はいますか?
A. 浅野長政・富田知信・津田四郎左衛門・滝川儀太夫らが付き従い、織田長益(有楽斎)と滝川雄利も加わって、150人余りの行列だったと伝わります。

Q. 旭姫と家康に子どもはいましたか?
A. いません。

Q. 旭姫の墓はどこにありますか?
A. 京都の東福寺南明院と、静岡市の瑞龍寺にあります。

まとめ

旭姫は、秀吉と秀長の妹として生まれ、44歳で夫と離縁させられて、兄の天下取りのために家康へ嫁ぎました。浅野長政ら秀吉の重臣が付き従った150人余りの行列は、豊臣と徳川の和睦を形にした儀式でもありました。駿河御前と呼ばれた日々はわずか4年、48歳で聚楽第で亡くなります。戦をせずに家康を従わせた豊臣家の外交の、いちばん重い役目を背負った女性でした。

参考:『家忠日記』/『多聞院日記』/桑田忠親『豊臣秀吉研究』角川書店/小和田哲男『秀吉の天下統一戦争』吉川弘文館

  • URLをコピーしました!
目次