真田昌幸は、上田城で二度、徳川の大軍を退けています。一度目は七千に対して二千、二度目は三万八千に対して二千五百ほど。どちらも桁が違う相手でした。
答えを先に言えば、三つが重なっています。ひとつは地形。城の南は尼ヶ淵の崖で、川が天然の堀になっていました。ふたつめは縄張。昌幸は城だけでなく城下町ごと罠に作り変えています。三つめが兵の使い方で、籠城ではなく、わざと引き込んで叩き、崩れた相手を川まで追い落とす攻めの戦い方をしました。そしてもうひとつ、どちらの戦も勝敗を決めた要因は城の外にあった──これが、あまり語られない部分です。
- 第一次と第二次で、兵力差と戦い方はどう違ったのか
- 「引き込んで叩く」とは具体的に何をしたのか
- 尼ヶ淵の崖と矢出沢川が、どう城の守りになっていたのか
- 真田の強さは、兵が強かったということなのか
- 秀忠が関ヶ原に遅れたのは、本当に昌幸のせいなのか
本放送は日曜 午後8時(NHK総合)、日曜 午後6時(NHK BS)、日曜 午後0時15分(BSプレミアム4K)。再放送は翌週土曜 午後1時05分(NHK総合)と、日曜 午後6時(BSプレミアム4K)です。
第一次上田合戦 ─ 城戸を開けて、城の中まで引き込む
天正十三年閏八月二日、徳川の軍勢が上田城に攻め寄せました。率いたのは鳥居元忠・大久保忠世・平岩親吉。沼田の引き渡しを拒んだ昌幸を討つための出兵です。家康自身は浜松にいて、出陣していません。
昌幸がとったのは、守りを固めて耐える戦い方ではありませんでした。二の丸の城戸をわざと開けて、徳川勢を城の中まで入れたと伝わります。入ってきたところで一斉に矢と鉄砲を浴びせ、同時に城下町へ火を放つ。狭い町なかで隊列が崩れたところを、支城の真田氏本城方面に伏せていた手勢と、長男・信幸の兵が横から突きました。

ここで誤解されやすいのですが、第一次上田合戦は一日で終わっていません。閏八月二日の合戦の翌日、徳川方は真田に味方した丸子氏の丸子城に向かい、ここでも落とせずに二十日ほど対陣します。その後も大久保忠世らは小諸城にとどまって小競り合いを続けました。徳川が完全に兵を引いたのは十一月です。一日の戦いではなく、三か月に及ぶ戦役でした。
崩れた徳川勢は東へ退きます。その先にあったのが神川でした。追撃を受けながら川を渡ろうとして、多くの将兵が流されたと伝わります。徳川方の戦死者は千三百余とされますが、この数字自体が後世の軍記によるものです。
第二次上田合戦 ─ 三万八千を、八日
十五年後の慶長五年九月。関ヶ原へ向かう東軍のうち、中山道をゆく徳川秀忠の軍勢三万八千が上田に差しかかります。城にいたのは昌幸と次男の信繁。長男の信之は、このとき徳川方にいました。犬伏の別れで父子が分かれた直後です。
昌幸はまず開城を申し出ます。秀忠がそれを受けて使者を立てると、今度は返事を引き延ばす。支度が要る、家中をまとめる、と言っては日を稼ぎました。業を煮やした秀忠が攻めかかると、今度は城下に出た徳川勢を神川のあたりで叩く。この繰り返しで、九月二日から八日までが過ぎていきます。
そして秀忠は関ヶ原(九月十五日)に間に合いませんでした。
地の利① ─ 南は崖、城は三方を水に守られていた
上田城は、平地にぽつんと建つ城ではありません。南側は尼ヶ淵と呼ばれる崖で、その下を千曲川の分流が流れていました。つまり南からは攻められない。東には神川、北には矢出沢川。攻め手が足を置ける方角が、はじめから限られている城です。
七千の兵がいても、そのうち城に取りつけるのは一部だけ。残りは後ろで順番を待つことになります。兵力差が兵力差のまま効かない地形で、これが「少ない兵で守れた」いちばん大きな理由です。崖と堀の造りは上田城はなぜ落ちなかったのかに写真つきでまとめています。

地の利② ─ 川を付け替え、町ごと囲いこむ
昌幸がしたのは、地形を使うことだけではありませんでした。矢出沢川の流路を付け替えて、城下の北側を守る水の線に仕立てています。もとは川だった部分は百間堀という大きな堀になりました。そのうえで城下町そのものを土塁と堀で囲う惣構えを作ります。
この設計の意味は、戦ってみるとわかります。攻め手は城に取りつく前に、まず町に入らなければならない。ところがその町は、まっすぐ進めないように道が折れ、袋小路がある。町そのものが城の一部でした。第一次で徳川勢が崩れたのは、この町なかで隊列が分断されたからです。縄張の細かい話は上田城の縄張と惣構えに譲ります。
兵の使い方 ─ 籠城ではなく、出て叩く
少ない兵で大軍と戦うとき、ふつうは城にこもります。昌幸はその逆をやりました。
- 引き込む ── 城戸や町の入口をわざと開け、相手を狭い場所まで誘う
- 分断する ── 町の道筋と火で隊列を切り、数の利を消す
- 横から突く ── 支城や別働隊を伏せておき、正面ではなく側面から当てる
- 追い落とす ── 崩れた相手を川まで追い、退路で損害を与える
どれも、城と町の造りを知り尽くしていなければできません。城を建てた者が、その城で戦っているというのが昌幸の一番の強みでした。上田城は天正十一年ごろから昌幸自身が普請した城です。

真田の強さは、兵が強かったということなのか
「真田の兵は精強だった」という語り方があります。ただ、真田は信濃の小さな国人で、動かせる兵の数も限られていました。一人ひとりが徳川の兵より強かった、という話ではおそらくありません。
違ったのは、兵の質ではなく兵の置き場所です。同じ二千でも、地形と町の造りで相手が一度に当てられる数を絞れば、ぶつかる局面ではこちらが多い。昌幸がやったのはそれで、言ってしまえば戦場を小さく切り分ける技術でした。真田家三代を通して見ると、この身の処し方は昌幸一代のものではなく、武田に仕える前から続く家のやり方だったことがわかります。
それでも、勝ちを決めたのは城の外だった
ここが、二度の上田合戦でいちばん見落とされる点です。
第一次。徳川勢は閏八月に退いたあとも上田の周辺にとどまり、戦いは終わっていませんでした。徳川が本気で兵を引いたのは十一月、石川数正が秀吉のもとへ出奔したあとです。家老が走って軍の仕組みが筒抜けになり、しかも秀吉が和睦を命じてきている。真田を討っている場合ではなくなったのが実際のところでした。
第二次。秀忠が引き揚げたのも、上田が落ちなかったからというより、関ヶ原へ急がねばならなかったからです。もし上田が本気の攻城目標だったなら、三万八千で八日では済みません。
つまり二度とも、昌幸は「勝った」のではなく「落とされなかった」。そしてそのあいだに、城の外で大きな事情が動いて徳川が手を引いた。昌幸の非凡さは、兵を強くしたことではなく、落とされずに時間を稼げば状況のほうが動くと読み切っていたところにあります。小勢力が生き延びる作法として、これ以上なく合理的でした。

よくある疑問
Q. 第一次上田合戦に、徳川家康は来ていたのですか。
A. 来ていません。鳥居元忠・大久保忠世・平岩親吉が率いた軍で、家康は浜松にいました。「家康が真田に負けた」と語られがちですが、総大将が出た戦ではありません。
Q. 兵力の数字はどこまで信じられますか。
A. 七千対二千も、三万八千も、後世の軍記や編さん物によるものです。桁として大きな差があったことは確かですが、人数そのものは目安と考えるのが安全です。
Q. 秀忠が関ヶ原に遅れたのは昌幸のせいですか。
A. 昌幸が日数を食わせたのは事実ですが、それだけが理由ではありません。家康からの使者が悪天候で遅れて届いたこと、その後の行軍が長雨にたたられたことが大きく働いています。
Q. 上田合戦は三度あったのではないですか。秀忠が東山道を進みながら攻めた戦いは別では。
A. 二度です。徳川秀忠が中山道(古代の東山道にあたる道筋)を進みながら上田城を攻めた、その戦いがそのまま第二次上田合戦です。別の戦いではありません。
三度に見えるのには理由があって、徳川が上田に兵を向けた「回数」で数えると三度以上になるからです。天正十三年閏八月の合戦のあとも徳川勢は信濃に居残り、丸子城を攻めて二十日ほど対陣し、小諸城にとどまって小競り合いを続けました。さらに十一月には改めて攻める構えもありましたが、石川数正の出奔でそれどころではなくなり撤退しています。合戦として数えれば二度、兵を出した局面で数えればもっと多い、というのが実際のところです。
Q. 上田城はいま、当時のまま残っていますか。
A. 残っていません。関ヶ原のあと徳川に破却され、いまの櫓は江戸期のものです。ただし堀と土塁の縄張は地形として追うことができ、城下町の道筋にも当時の設計が残っています。
まとめ
- 上田合戦は二度。秀忠が中山道を進みながら攻めた戦いが第二次そのもので、別の三度目ではない
- 第一次(天正十三年閏八月)は約七千対二千、第二次(慶長五年九月)は約三万八千対二千五百。いずれも数字は後世の軍記による
- 昌幸は籠城せず、城戸や町の入口を開けて引き込み、分断し、側面から突き、川まで追い落とした
- 南は尼ヶ淵の崖、東は神川、北は付け替えた矢出沢川。攻め手が取りつける方角がはじめから限られていた
- 城下町ごと囲う惣構えで、町そのものを城の一部にしていた
- 真田の強さは兵の質ではなく、戦場を小さく切り分けて局地的に数で上回る技術だった
- 第一次は石川数正の出奔、第二次は関ヶ原への行軍と、どちらも徳川が手を引いた理由は城の外にあった

