松永久秀は、墓地の上に城を築いて五輪塔を石垣に使い、東大寺の大仏殿が焼けた戦いの当事者となり、そのちょうど十年後の同じ月日に信貴山城で命を絶ちました。当時の奈良の人びとはこれを神仏の罰と受け止めましたが、同じように寺の石を城に使った武将はほかにも大勢います。罰だったかどうかは史料では決められません。確かなのは、偶然の一致が「罰」として語られるほど、大和では神仏の力が信じられていたということです。
- 多聞山城は墓地の上に築かれ、発掘では石垣などに使われた五輪塔が多く見つかっている
- 信貴山城に国じゅうの石を集めたという話は、多聞山城ほど確かな裏付けが知られていない
- 大仏殿が焼けた原因は、久秀方の戦火とする記録と、三好方の兵の放火とする記録に分かれる
- 久秀の死は大仏殿炎上と同じ十月十日。『多聞院日記』はこの一致を書き留めている
- 茶釜と爆死した話は後の世に広まったもの。同時代の記録は焼死や切腹と書く
多聞山城 ── 墓地の上に築いた城
久秀が奈良の町を見おろす丘に築いた多聞山城は、もとは墓地だった場所です。発掘調査では、石垣の角や築きにくい場所の土留めなどに使われた石材が見つかり、その中でいちばん多いのが五輪塔でした。死者を供養するための石塔を、城の石として積んだことになります。
多聞山城は石垣と瓦と白壁をそなえた新しい城で、「多聞櫓」という言葉もこの城から生まれました。城の全体像は多聞山城跡で紹介しています。

奈良市の多聞城跡の碑。いまは中学校の敷地になっている
信貴山城にも国じゅうの石を集めたのか
興味深いのは、多聞山城の石のその後です。久秀が滅んだあと城は壊され、石材の多くは筒井城の石垣に回され、さらに郡山城へ運ばれました。久秀の城に積まれた石が、のちに秀長の城の一部になった可能性があるのです。郡山城の石垣に残る逆さ地蔵は大和郡山城で、寺の石が城に使われた理由は転用石とはで書いています。
大仏殿を焼いたのは久秀だったのか
永禄十年(1567)十月十日、奈良で久秀と三好三人衆が戦い、東大寺の大仏殿が焼けました。この一件が「大仏焼き」として久秀の名に結びついています。
ただ火の出どころについて、記録の書きぶりは分かれます。興福寺の僧が書いた『多聞院日記』は、戦の火が燃え広がって大仏殿に及んだと伝えます。宣教師ルイス・フロイスは、三好方にいたキリシタンの兵が火をつけたと書きました。久秀がみずから大仏殿に火を放てと命じたと言い切れる材料はありません。大仏殿が二度焼けた歴史は東大寺:大仏はなぜ二度焼けたのかにまとめています。
十年後の同じ日に
天正五年(1577)、久秀は信長に背いて信貴山城に籠もり、織田信忠の軍勢に囲まれます。城が落ちたのは十月十日。大仏殿が焼けた日から、ちょうど十年後の同じ月日でした。
『多聞院日記』はこの一致を不思議なこととして書き留め、奈良では春日明神の罰だという声が上がったと伝わります。大仏殿の炎を見た人びとがまだ大勢生きていた時代です。十年後の同じ日に、その戦いの当事者が城とともに果てた。神仏の罰と受け止めたくなるのは無理もありません。日記そのものについては多聞院日記とはで紹介しています。

平群町の信貴山城址の碑。久秀はこの山城で最期を迎えた
平蜘蛛の釜と「爆死」の話
久秀の最期といえば、名物の茶釜「平蜘蛛」に火薬を詰めて、釜もろとも爆死したという話が有名です。しかし同時代の記録は、『信長公記』が城に火を放っての焼死、『多聞院日記』が腹を切って城を焼いたと書いています。釜を打ち砕いたという話はありますが、爆死という語り方は後の世に広まったものです。
神仏を恐れない男には、派手な最期が似合う。爆死の話が好まれてきたのは、そんな見方の裏返しかもしれません。最期の諸説は松永久秀は本当に「三悪」を働いたのかと、放送回の解説第18〜21回の史実解説でも取り上げています。
神仏の罰だったのか、無関係だったのか
歴史の学問では、罰があったかどうかは答えられません。ただ、比べてみることはできます。寺の石を城に使ったのは久秀だけではありません。筒井順慶も、秀長も、信長も、石塔や石仏を石垣に積みました。秀長は郡山城の石垣に地蔵を積み、多武峰の寺を郡山に移させています。その秀長が病に倒れたとき、奈良ではたたりの噂が立ちました(秀長は寺社の国・大和をどう治めたのか)。
つまり、寺社に手をかけた者に不幸が起きると、人びとはそれを罰として語り直したのです。久秀の死も、信長に二度背いた末の戦の結果として十分に説明がつきます。十月十日という一致は、十月が戦の季節だったことを思えば、起こりえない偶然ではありません。
それでも、罰の話が生まれ、語り継がれたこと自体に意味があります。大和の人びとがどれほど神仏の力を信じ、寺社がどれほど暮らしを縛っていたか。その感覚は石川清兵衛はなぜ仏罰を恐れたのかで詳しく書きました。寺社が年貢を握っていた大和の事情は大和はなぜ貧しい国だったのかをご覧ください。
よくある質問
Q. 久秀は本当に神仏を恐れなかったのですか。
A. 本人の心の内を伝える記録はありません。墓地の上に城を築き、石塔を石垣に使ったのは確かですが、これは同じ時代の多くの武将がしたことでもあります(転用石とは)。
Q. 大仏殿が焼けた日と、久秀が死んだ日は本当に同じですか。
A. どちらも旧暦の十月十日と記録されています。同時代の『多聞院日記』がこの一致を書き留めていることから、当時から話題になっていたことがわかります。
Q. 久秀のあと、大和はどうなりましたか。
A. 宿敵だった筒井順慶が大和を任され、その後に秀長が入りました(大和の戦国時代とは)。
まとめ
松永久秀は墓地の上に多聞山城を築いて五輪塔を石垣に使い、大仏殿が焼けた戦いの当事者となり、その十年後の同じ日に信貴山城で果てました。当時の奈良の人びとはこれを春日明神の罰と受け止めましたが、寺の石を城に使ったのは秀長も筒井も同じです。罰だったかどうかは決められません。ただ、偶然の一致が罰として語り継がれたことが、神仏の力が生きていた大和の空気をいまに伝えています。久秀の生涯は松永久秀は本当に「三悪」を働いたのかで、秀長が入るまでの大和はなぜ秀長は大和郡山に百万石を与えられたのかでたどれます。

