備中松山城:天守が残る唯一の山城と、標高430メートルの日本三大山城

雲海の上に姿を見せる山上の石垣と天守(イメージイラスト)

備中松山城(びっちゅうまつやまじょう)は、岡山県高梁市の臥牛山に築かれた山城です。標高およそ四百三十メートルの小松山に天守が建ち、現存十二天守のなかで最も高いところにあります。山城でありながら天守が今日まで残った唯一の例で、高取城・岩村城とならぶ日本三大山城のひとつです。延応二年(一二四〇)の築城から幕末まで、七百年近く城として使われ続けました。

目次

臥牛山に七百年 ── 城のはじまり

延応二年(一二四〇)、秋庭三郎重信が臥牛山の大松山に城を構えたのがはじまりと伝わります。鎌倉時代のことで、このときはまだ土と木の砦でした。

元弘年間には高橋宗康が入り、城域を南の小松山まで広げます。臥牛山は北から大松山・天神の丸・小松山・前山と四つの峰が連なる山で、この尾根全体が城として使われました。いま天守が建つのは小松山です。

山ひとつを丸ごと城にするという発想は、高取城や竹田城と同じです。ただ、この城が違うのは、近世に入っても山を下りなかったこと。ふつうは麓へ政庁を移しますが、備中松山城は山上を使い続けました。

三村氏と備中兵乱

戦国期、この城を握ったのが三村氏です。永禄四年(一五六一)に三村家親が毛利の支援を得て城を取り、備中一帯へ勢力を伸ばしました。庭瀬城をはじめ、備中の各地に支城を置いています。

しかし家親は宇喜多直家に討たれ、跡を継いだ元親は父の仇である宇喜多と結んだ毛利と決裂します。天正二年から三年(一五七四〜七五)にかけての備中兵乱です。

毛利の大軍に囲まれて城は落ち、三村氏は滅びました。大和で筒井と越智が争ったのと同じ時期に、備中では三村と宇喜多が争っていたことになります。地方の国人同士の争いに大勢力が乗り、勝った側が土地ごと飲み込む。戦国のどこででも起きた形です。

その後、天正七年(一五七九)に毛利輝元が前線基地として本格的に普請を始めます。織田との境目にあたる城として、ここで一度大きく作り直されました。

小堀父子が手を入れた城

関ヶ原のあと、備中は徳川の直轄地となり、代官として小堀正次が送り込まれます。豊臣秀長のもとで検地奉行を務め、郡山城の普請にも関わった人物です。

正次が没したあと、その仕事を引き継いだのが子の政一、のちの小堀遠州です。慶長十一年(一六〇六)ごろから城の修築にあたりました。遠州といえば茶と庭で知られますが、本業は普請奉行です。わび茶の流れのなかに置かれる人物が、山城の石垣を積み直していたことになります。

父が秀長の大和で田を測り、子が徳川の備中で城を直す。天正十三年の国替えから二十年あまりで、同じ家の仕事の場所がこれだけ動きました。

水谷勝宗の大改修と、いまの天守

寛永十九年(一六四二)、水谷勝隆が入城します。その子勝宗が天和年間(一六八一〜八四)に大改修を行い、いま見る備中松山城の姿が整いました。天守、二重櫓、土塀。現存しているのはこのときの建物です。

天守は二層二階。他の現存天守とくらべれば小ぶりですが、山上に建てるのですから当然です。石も材木も人も、すべて山を担ぎ上げなければなりません。石をどう集めるかという問題は、山城ではそのまま城の大きさを決めます。

内部には囲炉裏と装束の間があります。籠城を想定した造りで、天守が住むための建物ではなく戦うための建物だったことがわかります。

城を受け取りに来た大石内蔵助

元禄六年(一六九三)、水谷氏が跡継ぎなく断絶します。城は幕府に返されることになり、その受け取りを命じられたのが赤穂藩の浅野家でした。

現地へ入り、城の引き渡しを取りしきったのが家老の大石内蔵助です。のちに赤穂事件で知られる人物が、その数年前にこの山城に詰めていたことになります。城内には大石が在番した際の逸話が伝わります。

▽ よく語られる話
大石内蔵助が備中松山城に立てこもった、あるいは城を攻め取った。
▼ 史実ではこうです
城の受け取りは戦ではなく、事務手続きです。水谷家が断絶し、次の城主が決まるまでのあいだ、幕府の命で赤穂藩が城と領地を預かりました。大石はその実務を担当した家老です。城を明け渡す側との折衝が難航したという話は残りますが、武力で奪った事実はありません。

桑山重晴が和歌山城を預かったのと同じで、城を預かるという仕事は戦国から江戸を通じてずっとありました。

山田方谷と板倉勝静 ── 幕末の備中松山藩

正徳元年(一七一一)に板倉勝澄が入り、以後は板倉家が七代にわたって幕末まで治めます。この藩を有名にしたのが、藩政改革を担った山田方谷です。

方谷は農民の出から学問で身を立て、藩の財政を立て直しました。借財を整理し、特産品を開発し、藩札を刷り直す。郡山の箱本が町に自治を任せて回したように、方谷は藩の経済そのものを組み替えました。

その方谷を用いた板倉勝静は、幕府の老中首座まで進みます。徳川に最後まで従い、戊辰戦争では江戸を出て各地を転戦しました。主が不在のまま朝敵とされた備中松山藩を、無血で開城へ導いたのが方谷です。城が壊されずに済んだ背景には、この判断があります。

なぜ天守が残ったのか

明治四年(一八七一)の廃城で、多くの城は建物を売り払われました。備中松山城も同じ運命をたどるはずでしたが、結果として天守は残ります。理由は単純で、山の上にあったからです。

解体して麓まで下ろす手間と、売って得られる金額が釣り合いません。誰も手を出さないまま放置され、草木に埋もれていきました。高取城は建物が解体されて石垣だけが残りましたが、こちらは逆に建物が残ったことになります。

昭和三年に地元の町が二重櫓を修理し、昭和十四年から十六年にかけて天守の解体修理が行われました。昭和十六年に天守・二重櫓・三の平櫓東土塀が重要文化財に、昭和三十一年に城跡が国の史跡に指定されています。

雲海に浮かぶ城を見るには

▶ 雲海を狙うなら
  • 時期 … 九月下旬から四月上旬。とくに十月下旬から十二月上旬が出やすいとされます
  • 時間 … 夜明け前から午前八時ごろまで。日が高くなると消えます
  • 条件 … 前日が暖かく晴れ、夜間に冷え込み、風が弱い日。川霧が立つ朝が狙い目です
  • 場所 … 城そのものではなく、臥牛山の中腹にある展望台から見下ろします。城とは別のルートです
  • 足 … 展望台までは車。暗いうちに山道を上ることになるので、前日のうちに道を確認しておくと安心です

雲海に浮かぶ城として知られるのは竹田城と岩村城、そしてこの備中松山城です。ただ、天守が建ったまま雲の上に出るのはここだけです。

駐車場と所要時間

▶ 訪ねるまえに
  • 車 … 八合目のふいご峠に駐車場があります。台数が限られ、行楽期は麓の城まちステーションから乗合バスに乗り換える形になります
  • 徒歩 … ふいご峠から本丸まで徒歩約二十分。石段と坂が続きます
  • 電車 … JR伯備線の備中高梁駅から。駅から登城口までは乗合タクシーやバスを使います
  • 所要時間 … 城の見学だけで一時間から一時間半。雲海展望台をあわせるなら半日
  • 装備 … 歩きやすい靴。冬の早朝はかなり冷えます

高取城のように片道一時間半を歩くのとくらべれば、ずっと軽い登城です。三大山城のなかでは最も訪ねやすい城といえます。

見学順 ── 大手門跡から天守まで

▶ おすすめの順路
  • 大手門跡 … 天然の岩盤の上に石垣を積み上げた場所。この城でいちばん写真に撮られる一角です
  • 三の平櫓東土塀 … 現存する土塀。復元部分との違いを説明板で確かめられます
  • 三の丸・二の丸 … 曲輪を上がっていくと、天守と二重櫓が並んで見えてきます
  • 天守 … 内部に入れます。囲炉裏と装束の間を見ておいてください
  • 二重櫓 … 天守の裏手。現存建物で、岩盤の上に建っています
  • 大松山・天神の丸 … さらに北へ尾根を進むと、中世の城域に入ります。時間があれば

近年は城に住みついた猫が城主として親しまれ、訪れる人の楽しみのひとつになっています。石垣と天守を見たあと、尾根を北へたどって中世の城域まで足を延ばすと、七百年分の層が一日で歩けます。高取城で猿石を探しながら歩くのと同じで、この城も段ごとに時代が違います。

同じころ城の普請を担った武将としては藤堂高虎はなぜ築城の名手になったのかもあわせてどうぞ。

まとめ

この記事の要点
  • 備中松山城は標高およそ四百三十メートルの小松山に建ち、現存十二天守で最も高い場所にあります
  • 延応二年(一二四〇)に秋庭重信が築き、戦国期は三村氏の城。天正二〜三年の備中兵乱で三村氏は滅びました
  • 関ヶ原のあと小堀正次・政一(遠州)父子が修築し、天和年間の水谷勝宗の大改修でいまの姿になりました
  • 元禄六年に水谷氏が断絶し、赤穂藩の大石内蔵助が城の受け取りにあたっています
  • 幕末は板倉勝静と山田方谷の藩。山上にあったため廃城後も解体されず、天守が今日まで残りました

山城で天守が残っているのは、日本でこの城だけです。石垣だけの高取城、石垣だけの竹田城と並べて見ると、建物がひとつ残ることの重みがわかります。

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