【福島城とは】
福島城は、現在の福島県庁の敷地そのものにあった城である。戦国時代までは杉目城、あるいは大仏城と呼ばれていた。
三度名前が変わり、一度は秀吉の命で取り壊され、百年以上のあいだ城のない藩として過ごし、元禄になって再び城として整えられた。消えて、戻ってきた城である。

「福島城址」の石碑。背後は福島県庁(福島県福島市杉妻町)
【杉目城、大仏城、福島城】
現地の案内板が、名前の変遷を丁寧に追っている。
戦国時代まで、この地の城は杉目城と呼ばれた。同時に大仏城という名も伝わり、出土した資料がその由緒を示すという。応永年間には伊達持宗が大仏城に立てこもり、関東の公方に背いたという記録が残る。伊達氏がまだ奥州の一領主だった頃の話である。

福島県が設置した「福島城跡」の案内板。城名の変遷と領主の交代が詳しく記されている
転機は豊臣秀吉の奥羽仕置である。蒲生氏の下で この地を任された木村吉清が、文禄元年(1592)に杉目城へ移り、城の名を福島城と改めた。現在の県名・市名の直接の起点が、このときの改称にある。
ところが文禄四年、秀吉の命によって福島城は取り壊された。名を得た三年後に、城そのものが消えたことになる。
【百年以上、城のない藩】
その後の領主交代は目まぐるしい。案内板は上杉氏(1598〜1664)、堀田氏(1686〜1700)を挙げ、その間は幕領となるなど頻繁に領主が変わり、城は築かれず、陣屋での支配が行われたと記す。
上杉時代の福島城には、上杉景勝の重臣本庄繁長が城代として入っていた。慶長五年(1600)の慶長出羽合戦では、伊達政宗の攻撃をここで受け止めている。長谷堂城で直江兼続が最上義光と戦っていたのと同じ時期、福島では繁長が伊達を抑えていた。

「福島城と奥州街道」の案内板。城下町と街道の関係が図で示されている
城が再び整えられるのは元禄十五年(1702)、板倉氏が入ってからである。取り壊しから百年以上が経っていた。
【天守はないが、二十五ヘクタール】
板倉氏が整えた福島城について、案内板はこう書く。大名の居城としては大規模なもので、天守閣はないものの、政務をとる二の丸は約二十五ヘクタールあった、と。
天守を建てない代わりに、政務と居住のための空間を広く取る。壬生城が「天守や櫓といった建物は建てられていませんでした」と記され、堀田佐野城の城郭図に御殿と学問所しか描かれていないのと、まったく同じ思想である。江戸中期以降に整備された城は、軍事施設であることをほとんどやめていた。
城の南東を阿武隈川が流れ、天然の堀の役割を果たした。
【三河の名所を、福島に写す】
城の南側に広がる紅葉山公園は、福島城の二の丸御外庭にあたる。

「二の丸御外庭」の案内板。紅葉山公園一帯が藩主の庭だった
案内板によれば、ここには福島藩主・板倉家の居室があり、池、茶屋、築山などが設けられていた。そして池について、こう記されている。三河国八ツ橋(愛知県知立市八橋)のかきつばたの名所をまねてつくったと言われています、と。
板倉氏はもともと三河の出である。京都所司代を務めた板倉勝重、島原の乱で戦死した板倉重昌を出した家系で、その本貫の地の名所を、奥州の庭に写した。転封を重ねる大名が、庭に故郷を再現する。藩主は殿中からこの池を眺めていたという。

「ふるさとの歴史を子孫に残そう 福島藩板倉氏」の案内板(福島中央ライオンズクラブ寄贈)
【城跡に県庁が建っている】
明治になって城は失われたが、その跡地には福島県庁が置かれた。案内板は、現在の知事公館付近が城の一部にあたること、庁舎の南側に紅葉山公園が残っていることを記している。
これはよく考えると珍しい状態である。栃木城も佐野城も、廃されたあとは公園や住宅地になった。福島城は違う。政務をとる場所として、四百年間ずっと使われ続けている。板倉氏が二の丸で政務を執っていた場所で、いまも県政が動いている。

城跡に立つ銅像。県庁前の一角にある
城の遺構はほとんど残らない。それでも「ここが中心である」という土地の役割だけは、名前を三度変えながら受け継がれてきた。
【福島城の現地写真】

【福島城・場所・アクセス】
〒960-8670 福島県福島市杉妻町
JR「福島駅」から徒歩約15分、またはバス。東北自動車道 福島西インターから車で約20分。福島県庁の敷地および紅葉山公園。
見どころは県庁前の「福島城址」の石碑、紅葉山公園(二の丸御外庭)、そして各所に立つ案内板。遺構は乏しいが、案内板を順に読んでいくと城の輪郭と歴史がつかめる。阿武隈川の流れもあわせて確認したい。
【福島城ゆかりの城】
