宮城県白石市。仙台の南、福島との県境に近いこの町に、白石城が建っている。
この城の面白さは、天守や石垣そのものよりも、城主が目まぐるしく入れ替わったことにある。天正十四年(1586)から慶長七年(1602)までのわずか十六年間で、主は四度替わった。伊達、蒲生、上杉、そしてふたたび伊達。奥州の勢力図が動くたびに、この城の持ち主が変わった。

野面積みの石垣の上に建つ三階櫓。平成七年に木造で復元された
歴代城主を並べてみる
案内板には歴代の城主が十代にわたって列挙されている。前半だけ抜き出すと、こうなる。
- 刈田左兵衛尉経元 … 寛治年中から五代・百一年
- 白石秀長 … 文治五年から十五代・三百九十七年
- 屋代勘解由兵衛景頼(伊達家臣)… 天正十四年から二年
- 蒲生源左衛門郷成(蒲生家臣)… 天正十九年から五年
- 甘糟備後守清長(上杉家臣)… 慶長三年から二年
- 石川大和守昭光(伊達家臣)… 慶長五年から七年
- 片倉小十郎景綱以下、片倉氏 … 慶長七年から二百六十七年
白石氏が四百年近くこの地に居座り、片倉氏が二百六十七年続く。その二つの長い時間に挟まれて、戦国の最後の十六年だけが、二年・五年・二年・七年と異様に刻まれている。この密度の差そのものが、奥州の戦国である。
秀吉が伊達から取り上げた土地
案内板は、こう書き出している。
天正十九年(一五九一)豊臣秀吉は、伊達氏の支配下にあったこの地方を没収し、蒲生氏郷に与えた。
天正十八年の小田原参陣で伊達政宗はかろうじて家を保ったが、翌年の奥州仕置と葛西大崎一揆の処理で、刈田郡を含むこの一帯を取り上げられた。白石は、政宗にとって「奪われた土地」として始まる。
蒲生氏郷の家臣・蒲生郷成がここに城を築いて城主となり、五年。慶長三年(1598)に上杉景勝が会津へ入ると、白石は上杉領となり、家臣の甘糟備後守清長が城を再構築して入った。政宗が生まれた米沢城もこのとき上杉の手にあった。奥州の南半分は、この数年で二度も塗り替えられている。

木造復元された大手一ノ門。門の向こうに本丸が見える
政宗の関ヶ原は、この城から始まった
慶長五年(1600)、関ヶ原の合戦の直前。案内板は淡々と記す。
伊達政宗は白石城を攻略し、この地方は再び伊達領となり
政宗にとっての関ヶ原は、この白石城攻めから始まった。上杉討伐という名目のもと、九年前に取り上げられた土地を実力で取り返したのである。
このとき徳川家康は政宗に、旧領回復を認める書状を与えたと伝わる。いわゆる「百万石のお墨付き」だが、戦後にそれが全て実現することはなかった。結局、政宗が関ヶ原で確実に手にしたのは、この白石城とその周辺だった。攻め取ったものだけが残ったことになる。

本丸に立つ片倉小十郎景綱公頌徳碑
「智の小十郎」が二百六十七年を築いた
慶長七年(1602)、片倉小十郎景綱が白石城主となる。以後、片倉氏はここに二百六十七年、明治元年まで居続けた。
景綱は政宗の傅役をつとめ、参謀として付き従った人物である。猛将・伊達成実と並び称され、「武の成実、智の小十郎」と呼ばれた。摺上原でも、小田原参陣の決断でも、政宗の判断の背後には景綱がいたとされる。
本丸には「片倉小十郎景綱公頌徳碑」が高々と立つ。主君ではなく家臣の碑が城の中心に立っている城は、そう多くない。

三階櫓の最上階から大手一ノ門・二ノ門を見下ろす。門を二つ折れさせた枡形がよくわかる
一国一城令の、例外
元和元年(1615)、幕府は一国一城令を出す。一つの国に城は一つ。原則として、それ以外の城はすべて壊された。
ところが案内板はこう記している。
元和元年(一六一五)の一国一城令以後も仙台藩は幕府から青葉城と白石城の二城が許され
六十二万石の仙台藩は、例外として二つの城を持つことを認められた。青葉城は北、白石城は南の境を押さえる。福島との境に近いこの城が、伊達領の南の入口だったからである。
ここで思い出したいのが、二日前に取り上げた相馬中村城だ。相馬氏は慶長十六年、北の伊達に備えるためにわざわざ本拠を北へ移した。白石城はその伊達側から、南に向かって置かれた城である。阿武隈の東西で、二つの城が互いを向いて立っていた。

白石城の歴史を記した案内板。歴代城主が刈田経元から兵部省兵隊屯所まで十代にわたって並ぶ
中世と近世が同居する縄張
白石城は標高七十六メートルの丘に築かれた平山城である。案内板の説明が的確なので引く。
二ノ丸以下はすべて土塁で囲み、木柵をまわした崖を利用する等中世と近世城郭を併用した縄張であった。
本丸だけが九メートル余の石垣を積み、三階櫓・巽櫓・坤櫓・大手門を構える。その一段外へ出ると、もう土塁と木柵の世界になる。近世の顔をしているのは中心部だけで、外側は中世の城のままだったことになる。
なお天守にあたる建物を「三階櫓」と呼ぶのは、幕府への遠慮である。天守と呼ばなければ角が立たない。言い方を変えるだけで通る、という時代の作法がここに残っている。

「白石城本丸跡」の標柱。奥に三階櫓が建つ
東北全体の司令部になった日
この城が日本史の表舞台に出るのは、幕末である。慶応四年(1868)、奥羽越列藩同盟がこの白石城で結ばれた。案内板は「奥羽越三十一列藩同盟がこの城で結ばれ、公議府が置かれ輪王寺宮が滞城された」と記す。
相馬も、二本松も、棚倉も、三春も、福島も、この同盟に名を連ねた。東北じゅうの藩の代表が、片倉氏の城に集まって同盟を結んだのである。城主が七回替わった城が、最後に東北全体の司令部になった。
明治三年には兵部省の兵隊屯所となり、明治三十三年に民間へ払い下げられて解体される。現在の三階櫓・大手一ノ門・二ノ門は、平成七年に木造で忠実に復元されたもので、コンクリート製の模擬天守が多いなかでは貴重な例である。



高石垣を見上げる/本丸広場から/本丸に建つ三階櫓/大手門前から
白石城とあわせて訪ねたい城
- 相馬中村城(福島県相馬市)… 北の伊達に備えて築かれた、白石城と向かい合う城
- 米沢城(山形県米沢市)… 伊達政宗が生まれ、のちに上杉の城となった城
- 二本松城(福島県二本松市)… 奥羽越列藩同盟に加わり、少年隊の悲劇を生んだ城
- 棚倉城(福島県東白川郡棚倉町)… 同盟軍として戦い、一日で落ちた奥州の関門
- 三春城(福島県田村郡三春町)… 政宗の正室・愛姫を出した田村氏の城
- 岩出山城(宮城県大崎市)… 刈田を没収された政宗が移された、仙台以前の居城
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アクセス
〒989-0251 宮城県白石市益岡町1-16
JR東北本線「白石駅」から徒歩約10分。東北新幹線「白石蔵王駅」からは車で約5分。三階櫓・大手門は有料で内部を見学でき、続日本100名城のひとつに数えられている。

