関ヶ原の戦いをわかりやすく解説!なぜ西軍は有利な布陣で負けたのか【日本の歴史ブログ】

大垣城:美濃三人衆氏家卜全の居城にて関ヶ原の戦いでは西軍(石田三成)の拠点となった大垣城【お城特集 日本の歴史】
目次

この記事のポイント(先に結論)

  • 関ヶ原の戦い(1600年9月15日)は、徳川家康の東軍と石田三成の西軍が激突した天下分け目の決戦
  • 布陣はむしろ西軍が有利だったが、小早川秀秋の裏切りと毛利軍の傍観で、わずか半日で東軍が勝利した。
  • 勝敗を分けたのは、兵力や地形ではなく「寝返り」と「日和見」——つまり人の心だった。
  • この一日の勝利によって、家康は天下人への道を確定させ、260年続く江戸時代の礎を築いた。

慶長5年(1600年)9月15日、美濃・関ヶ原(岐阜県)。東西あわせて十数万の大軍が、たった一日で「天下の主」を決めた——。それが、日本史上もっとも有名な合戦、関ヶ原の戦いです。

関ヶ原の戦い わかりやすく」「なぜ家康が勝ったのか」——多くの人が知りたいこの謎を、この記事では布陣から決着まで、順を追って解き明かしていきます。じつはこの戦い、数の上でも地形の上でも、決して家康の楽勝ではありませんでした。勝敗を分けたのは、槍でも鉄砲でもなく、人の心の揺らぎだったのです。

西軍の後方拠点となった大垣城(岐阜県大垣市)。石田三成らはこの城を発ち、関ヶ原へと兵を進めた。

西軍の後方拠点となった大垣城(岐阜県大垣市)。石田三成らはこの城を発ち、関ヶ原へと兵を進めた。

天下分け目の朝、関ヶ原へ

秀吉の死後、家康は会津の上杉征伐を口実に東へ向かい、その隙に石田三成が挙兵しました。西へ引き返した家康の東軍と、大垣城を拠点とする三成の西軍は、やがて中山道と北国街道が交わる要衝・関ヶ原で対峙します。

決戦前夜、雨が降り、あたりは深い霧に包まれていました。両軍は暗闇のなか、密かに布陣を進めます。夜が明けた9月15日の朝、霧が晴れると、そこには十数万の軍勢がひしめく異様な光景が広がっていました。東軍の総大将は徳川家康、その数およそ7〜8万。西軍は石田三成を中心に約8万。数の上ではほぼ互角、いや、布陣だけを見れば、むしろ西軍のほうが圧倒的に有利だったのです。

じつは「西軍有利」だった布陣

関ヶ原の地形と布陣を上空から眺めると、驚くべきことがわかります。西軍は、関ヶ原に進入した東軍を、三方から取り囲む「鶴翼(かくよく)の陣」に近い形で展開していたのです。

正面には石田三成(笹尾山)、宇喜多秀家、小西行長、大谷吉継が構え、南の松尾山には小早川秀秋が1万5千の大軍で布陣。さらに東軍の背後にあたる南宮山には、毛利秀元・吉川広家・長宗我部盛親らが陣取っていました。つまり、東軍は西軍に前後を挟まれた「袋のねずみ」に近い状態だったのです。後世、この布陣を見たある外国の軍人が「これは西軍の勝ちだ」と評したという逸話が残るほど、理屈の上では西軍有利は明白でした。ではなぜ、西軍は負けたのか。その答えこそ、この戦いの最大のドラマです。

開戦──霧の中の激突

午前8時頃、霧が晴れるとともに、戦いの火蓋が切られました。緒戦は、井伊直政・松平忠吉の抜け駆けとも、福島正則の先陣ともいわれる突撃から始まります。

序盤の戦闘は、じつに激烈でした。石田三成の正面では、東軍の黒田長政・細川忠興らが猛攻を仕掛けますが、三成隊は島左近(しまさこん)の奮戦などで頑強に持ちこたえます。宇喜多秀家の1万7千は福島正則隊と一進一退の死闘を演じ、小西行長、大谷吉継の隊も奮戦しました。数時間にわたる激突のなかで、戦況はむしろ西軍がやや優勢とも見える展開でした。しかし、家康にはまだ切り札が残っていました。それは、まだ動いていない大軍——松尾山の小早川秀秋の存在です。

動かない大軍──毛利と小早川の「日和見」

西軍の布陣が「有利」だったにもかかわらず勝てなかった最大の理由。それは、味方であるはずの大軍が、まったく戦わなかったことにあります。

東軍の背後を扼(やく)するはずだった南宮山の毛利軍は、ついに山を下りませんでした。西軍の主力である毛利が動かなかったのは、家康と密かに通じていた吉川広家が、毛利本隊の前に陣取り、「弁当を食べている」などと称して進軍を阻んだためと伝わります。そして松尾山の小早川秀秋もまた、動きませんでした。彼は東軍・西軍のどちらにつくか、戦いが始まってもなお迷い続けていたのです。西軍の勝利は、この二つの大軍が本気で戦ってこそ成り立つものでした。しかし彼らは、山の上からじっと戦況を見つめるばかり。「味方が戦わない」という悪夢が、西軍を静かに追い詰めていきます。

【運命の瞬間】小早川秀秋の裏切り

正午近く、しびれを切らした家康は、驚くべき行動に出ます。味方であるはずの——しかし動かない——松尾山の小早川秀秋の陣に向けて、鉄砲を撃ちかけさせたのです。世に言う「問鉄砲(といでっぽう)」です。「早く旗色を鮮明にせよ」という、恫喝にも近い催促でした(この逸話には諸説あります)。

追い詰められた小早川秀秋は、ついに決断します。彼が兵を向けた先は、西軍——それも、眼下で奮戦する大谷吉継の隊でした。味方への、突然の裏切り。1万5千の大軍が山を駆け下り、西軍の側面に襲いかかったのです。この一瞬が、天下の帰趨を決定づけました。なぜ秀秋が裏切ったのか、その葛藤とその後の悲劇については、別の記事で詳しくお伝えします。ここで押さえておきたいのは、この裏切りが、優勢だった西軍を一瞬にして崩壊させたという事実です。

大谷吉継の最期と、西軍総崩れ

じつは、大谷吉継は小早川秀秋の裏切りをある程度予期しており、備えを固めていました。秀秋の軍が攻めかかると、吉継隊はこれを二度、三度と押し返します。しかし、悲劇はここからでした。秀秋の裏切りに呼応するように、脇坂安治ら西軍の四隊までもが、次々と東軍へ寝返ったのです。

四方から攻め立てられた大谷隊は、ついに壊滅しました。病のため輿(こし)に乗って指揮していた吉継は、もはやこれまでと悟り、自害して果てます。友・三成との義に殉じた、壮絶な最期でした。大谷隊の崩壊は、西軍全体に決定的な動揺をもたらします。宇喜多秀家、小西行長の隊も総崩れとなり、石田三成もついに戦場を離脱。午後2時頃には、大勢は完全に決していました。半日前まで「有利」だった西軍は、味方の裏切りによって、一日のうちに瓦解したのです。

岡山城。関ヶ原の“主役”ともいえる小早川秀秋は、戦後この城の主となるが、わずか2年で若くして世を去った。

岡山城。関ヶ原の“主役”ともいえる小早川秀秋は、戦後この城の主となるが、わずか2年で若くして世を去った。

西軍にもいた“漢たち”──島左近の奮戦

西軍の敗北ばかりが語られる関ヶ原ですが、そこには忘れがたい奮戦を見せた男たちもいました。その筆頭が、石田三成の懐刀・島左近(しまさこん)です。

「三成に過ぎたるものが二つあり、島の左近と佐和山の城」——そう謳われたほどの猛将で、三成が破格の禄で迎えたことでも知られます。関ヶ原本戦でも、左近は三成隊の先頭に立って東軍の猛攻を幾度も押し返し、黒田・田中勢を大いに苦しめました。銃弾に倒れたとも、最後まで戦い抜いたとも伝わりますが、その鬼神のごとき戦いぶりは、東軍の兵の記憶に深く刻まれたといいます。裏切りと日和見が戦局を決めた関ヶ原にあって、最後まで義に殉じて奮戦した男たちがいたこと——それもまた、この合戦が語り継がれる理由の一つなのです。

島津の退き口──敵中突破の伝説

西軍が総崩れとなるなか、ひときわ鮮烈な伝説を残したのが、薩摩の島津義弘です。周囲を東軍に完全に包囲された島津隊は、驚くべき決断をします。退却するのではなく、敵の正面——それも家康の本陣めがけて突撃し、そのまま突き抜けるという、前代未聞の脱出行を選んだのです。

世に言う「島津の退き口(のきぐち)」です。わずか千数百の手勢で数万の敵中を突破し、井伊直政や本多忠勝といった猛将の追撃を、身代わりの兵を残しながら振り切っていきました。関ヶ原に来たときは千数百いた兵が、薩摩にたどり着いたときはわずか数十だったとも伝わります。凄まじい犠牲を払いながらも、島津は大将・義弘を無事に故郷へ帰しました。この鬼神のごとき戦いぶりは東軍を震撼させ、戦後、島津家が改易を免れる一因になったとも言われます。敗軍のなかにあってなお、島津の名を天下に轟かせた不屈の退却でした。

関ヶ原に「間に合わなかった」徳川の主力

意外に知られていないのが、徳川本隊の主力が関ヶ原に間に合わなかったという事実です。家康の三男・徳川秀忠(のちの二代将軍)は、約3万8千という徳川軍の主力を率いて中山道を進んでいました。

ところがその途中、信濃・上田城(長野県)に籠もる真田昌幸・信繁(幸村)父子のわずかな軍勢に足止めを食らい、攻めあぐねているうちに、決戦の日に間に合わなかったのです。つまり家康は、自軍の主力を欠いたまま、豊臣恩顧の大名たちを頼りに戦わざるを得ませんでした。これは家康にとって大きな誤算でした。真田父子のわずかな兵が、天下の徳川本隊を釘付けにした——この「上田合戦」の逸話は、判官びいきの日本人に今も愛されています。もし秀忠が間に合っていれば、家康は寝返り工作に頼る危ない賭けをせずに済んだのかもしれません。

なぜ家康が勝ったのか

改めて問いましょう。布陣で不利だった家康は、なぜ勝てたのか。答えは明快です。家康は、合戦が始まる前に、すでに「調略(ちょうりゃく)」で勝っていたからです。

家康は戦の前から、小早川秀秋や吉川広家といった西軍の武将たちに、密かに内通を働きかけていました。表向きは西軍にいる彼らを、水面下で東軍へと寝返らせておく。だから家康にとって関ヶ原は、「戦って勝つ」場ではなく、「仕込んでおいた裏切りを発動させる」場だったのです。武力の激突の裏で繰り広げられた、周到な情報戦・心理戦。そこで圧倒的に上回っていたのが家康でした。三成の「大義」は正しかったかもしれません。しかし、人の心を動かし、味方につける現実的な力では、老練な家康に遠く及ばなかったのです。

関ヶ原の戦いにまつわる「よくある疑問」Q&A

Q. 関ヶ原の戦いはどれくらい続いたの?

午前8時頃に始まり、午後2時頃には大勢が決していました。天下を分けた大決戦でありながら、実際の戦闘はわずか半日ほどで終わったのです。

Q. 東軍と西軍、大将は誰?

東軍の実質的な総大将は徳川家康、西軍の中心は石田三成でした。ただし西軍の名目上の総大将は毛利輝元で、輝元自身は大坂城にいて戦場には出ていません。

Q. 負けた石田三成はどうなったの?

戦場を離脱後に捕らえられ、小西行長・安国寺恵瓊とともに京の六条河原で処刑されました。最後まで豊臣家への忠義を貫いた、その気高い散り際は、今も語り継がれています。

Q. 「問鉄砲」は本当にあったの?

家康が小早川秀秋の陣に鉄砲を撃たせて裏切りを催促したという「問鉄砲」の逸話は有名ですが、近年は創作・脚色とする見方も強まっています。実際には秀秋はもっと早い段階で裏切っていたとする研究もあり、真相は今も議論が続いています。

戦後処理──そして江戸幕府へ

関ヶ原の勝利は、日本の姿を根底から作り変えました。家康は、西軍についた大名を容赦なく処分します。石田三成や小西行長は処刑、毛利や上杉は大幅な減封、そして多くの西軍大名が改易(領地没収)となりました。没収された膨大な領地は、東軍についた大名や徳川一門へと再分配されます。

こうして家康は、名実ともに天下人となりました。そして慶長8年(1603年)、征夷大将軍に任じられ、江戸幕府を開きます。ここから約260年続く「泰平の世」が始まりました。豊臣家はまだ大坂城に残っていましたが、もはや一大名の地位に転落しつつありました。関ヶ原のわずか一日が、「豊臣の時代」を「徳川の時代」へと、決定的に塗り替えたのです。

ドラマ『豊臣兄弟!』から見た関ヶ原

『豊臣兄弟!』は秀長を主人公とする物語ですから、関ヶ原そのものは、はるか後日談として描かれるでしょう。しかし、その伏線はすべて、これまでの物語の中にあります。朝鮮出兵で生まれた武断派と文治派の亀裂、秀次事件で失われた有能な後継者、そして——弟・秀長という「まとめ役」の不在。

もし秀長が生きていたら、豊臣恩顧の大名たちが東西に分かれて殺し合う関ヶ原は、そもそも起こらなかったかもしれません。彼が両派の間に立ち、家康の野心を抑えていれば、歴史はまったく違う道を歩んだ可能性があります。関ヶ原とは、「秀長の不在」が生んだ最終的な帰結——そう捉えると、この天下分け目の決戦が、兄弟の物語の悲しい延長線上にあることが見えてきます。

裏話──「西軍が勝っていた世界線」

歴史ファンの間で今も熱く語られるのが、「もし小早川秀秋が裏切らなかったら」という“もしも”です。もし秀秋が西軍として大谷隊とともに東軍へ攻めかかり、南宮山の毛利軍も呼応して山を下りていたら——東軍は前後から挟撃され、家康が討ち取られていた可能性すらあります。

つまり関ヶ原は、ほんの数人の武将の「心変わり」ひとつで、まったく逆の結果になりえた戦いだったのです。天下の帰趨が、大軍の激突ではなく、松尾山の一人の若者の逡巡に懸かっていた。この“紙一重”のスリルこそ、関ヶ原が四百年以上たった今も人々を惹きつけてやまない理由です。歴史は必然のようでいて、その実、無数の偶然と人の弱さの上に成り立っている——関ヶ原は、そのことを鮮やかに教えてくれます。

ゆかりの地をめぐる歴史旅

関ヶ原古戦場(岐阜県関ケ原町)は、今では日本有数の“歴史の聖地”です。石田三成の陣跡・笹尾山、家康最後の陣跡、決戦地の碑などが整備され、記念館ではAR・VRで合戦を追体験できます。各武将の陣跡をめぐり歩けば、あの日の布陣が実感として胸に迫ってきます。

あわせて訪ねたいのが、西軍が拠点とした大垣城(岐阜県大垣市)。三成らがここから関ヶ原へ出陣しました。そして、裏切りの当事者・小早川秀秋が戦後に入った岡山城(岡山市)も、関ヶ原の“その後”を物語る場所です。城から城へと歩けば、天下分け目のドラマが立体的に浮かび上がってきます。

まとめ

関ヶ原の戦いは、布陣では西軍有利という状況を、家康が「調略」と「人心掌握」でひっくり返した戦いでした。勝敗を分けたのは、兵の数でも地形でもなく、小早川秀秋の裏切りに象徴される「人の心の揺らぎ」だったのです。

そしてこの決戦は、豊臣家臣どうしが東西に分かれて殺し合うという、あまりにも悲しい形で行われました。それを防げたかもしれない唯一の人物——弟・秀長は、すでにこの世にいません。次回は、この関ヶ原の“主役”でありながら、裏切り者の汚名を着て若くして散った悲劇の武将、小早川秀秋にスポットを当てます。彼はなぜ裏切ったのか。その知られざる葛藤と、「裏切り者」と後ろ指をさされながら、わずか2年で世を去った、あまりにも早い最期に迫ります。

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