日本100名城– category –
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日本100名城
躑躅ヶ崎館跡(武田神社):信玄が天守も高石垣も持たなかった館と、背後に構えた要害山城
甲府市古府中町の躑躅ヶ崎館跡は、武田信虎がこの地に本拠を移してから、信玄・勝頼と三代およそ六十年にわたって甲斐の国を動かした場所です。天守もなければ高石垣もなく、土塁と堀に囲まれた方形の区画が並ぶだけの姿は、同じ日本100名城のなかでも異質... -
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月山富田城跡(安来市):大内を退けた城が毛利に落ちた理由と、七曲りの登城路
月山富田城は出雲の尼子氏が本拠とした山城で、日本五大山城のひとつに数えられます。大内義隆の大軍を退けたことで難攻不落の名を得ましたが、二十年あまりのちに毛利元就の前に開城しました。落としたのは力攻めではなく、兵糧を断ち、内側を切り崩す戦... -
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鳥取城跡:渇え殺しの前に米を買い占めた秀吉と、天球丸の丸い石垣
鳥取城は久松山の頂から麓まで、山城と近世城郭が一つの山に重なって残っている城跡です。羽柴秀吉の兵糧攻め、いわゆる渇え殺しの舞台として知られますが、城の見どころはそれだけではありません。山上には戦国の曲輪が、山下には池田氏が整えた石垣が並... -
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平戸城:松浦鎮信が自ら焼いた城と、九十年後に山鹿素行の縄張で建て直された海の城
平戸城は、松浦(まつら)氏が平戸瀬戸を見下ろす岬に築いた城です。ただしこの城には、ほかにあまり例のない空白があります。最初に築かれた城は完成を目前にして、藩主自身の手で焼き払われてしまった。理由は徳川家への疑いを避けるためだったと伝えら... -
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名古屋城:豊臣を囲うために豊臣恩顧の大名が積んだ城と、焼け残った三つの隅櫓
名古屋城は、徳川家康が大坂の豊臣家を囲いこむために築かせた城です。工事は天下普請で、加藤清正や福島正則といった、もとは豊臣に仕えた西国の大名たちが自腹で石を運びました。豊臣を抑えるための城を、豊臣恩顧の大名が築く。この構図そのものが、当... -
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吉野ヶ里遺跡:弥生人がV字の壕で囲んだ四十ヘクタールと、天守も石垣もない遺跡が日本100名城に選ばれた理由
吉野ヶ里遺跡は、佐賀平野の北のへりに残る弥生時代の集落跡です。天守もなければ石垣もありませんが、日本100名城の八十八番に選ばれています。理由ははっきりしていて、ここが人の攻撃に備えて土地をまるごと囲いこんだ、日本でもっとも早い時期の痕跡だ... -
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今帰仁城跡(なきじんぐすく):百曲がりと呼ばれる石垣と、尚巴志に滅ぼされた北山王の城
今帰仁城(なきじんぐすく)は、沖縄本島北部の本部半島にある大きなグスクです。琉球王国が生まれる前、島が三つに割れていた時代に北部を治めた北山王の居城で、外周はおよそ一・五キロ、標高百メートルほどの丘をまるごと石垣で囲いこんでいます。目を... -
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大分府内城:海際に築かれた白雉城と、竹中半兵衛の従弟・竹中重利が整えた縄張
大分府内城は、大分川の河口に面した海際に築かれた城です。かつては三方を海と堀に囲まれ、白い櫓が水の上に浮かんで見えたことから白雉城(はくちじょう)とも呼ばれました。ここはもともと大友宗麟が本拠を置き、南蛮貿易で栄えた府内の町。大友氏が去... -
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飫肥城跡:伊東氏と島津氏が八十年奪い合った城と、秀吉のもとで取り戻した伊東祐兵
飫肥城は、宮崎県日南市にある城です。この城がほかと違うのは、伊東氏と島津氏が八十年とも百年ともいわれる長さでこの一か所を奪い合い続けたこと。日本の城で、これほど長く同じ場所が争われた例はほとんどありません。しかも一度は伊東氏が日向を追わ... -
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福岡城跡:天守はあったのかなかったのか、黒田長政が名島から移した五十二万石の城
福岡城には天守台があります。五層の天守が乗るだけの大きさがあり、石垣も立派に築かれています。ところが天守が建っていたのかどうか、いまも決着がついていません。幕府をはばかって最初から建てなかったという説が長く語られてきましたが、別の大名の... -
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掛川城:今川家家臣朝比奈泰能・朝比奈泰朝により統治され山内一豊が整備した掛川城
【城名】 掛川城 【城の説明】 掛川城は現在の静岡県掛川市にあった城である。室町時代に遠江の国の守護職今川氏が家臣の朝比奈氏に命じて築城させたのが始まりとされている。その後今川氏による支配が続いたが、戦国時代に入ると甲斐の武田信玄・三河の徳... -
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首里城:正殿の一般公開はいつから? グスクの石垣と、二つの国に属した琉球王国
【城名】 首里城 【城の説明】 首里城は現在の沖縄県那覇市にあった琉球王朝の本拠地として栄えた城です。築城の時期さだかではないが、14世紀頃だと考えられています。代々「尚氏」が国王として琉球王朝を治めてきました。尚氏は奄美大島や沖縄諸島などを... -
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明石城:天守台だけが残る将軍秀忠の城と、現存する巽櫓・坤櫓
明石城は将軍秀忠の命で築かれた城です。西国の大名をにらむ位置に置かれ、幕府が銀を出し、姫路の本多忠政が縄張を助けるという念の入れようでした。それだけの城でありながら天守は建てられず、天守台だけが本丸の隅に残っています。代わりに本丸の四隅... -
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和歌山城:秀長が築き浅野が整え徳川が継いだ城と、二人の将軍を出した紀州家
この記事は新しい記事にまとめました内容を加筆して一本にまとめています。最新版はこちらをご覧ください。和歌山城:豊臣秀長が虎伏山に築いた紀州の城と、三つの時代が層になった石垣 和歌山城は市街地のただなかにある虎伏山の上に建ち、麓から見上げる... -
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萩城跡(指月城):毛利が百二十万石を失って移った城と、倒幕の司令塔にならなかった理由
萩城は、関ヶ原に敗れた毛利家が日本海側に構えた城です。中国八か国百二十万石から周防・長門二か国へ削られ、瀬戸内の広島城を去って、山陰の指月山のふもとに新しい政庁を置きました。この移転を屈辱と受け取り、その恨みが二百五十年後の討幕につなが... -
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赤穂城跡:軍学が形にした折れ曲がる堀と、刃傷から討ち入りまでの城
※この記事の絵は、当時の様子を描いたイメージ(イラスト)です。 赤穂城は千種川の河口に築かれた海際の城で、堀が直角ではなく細かく折れ曲がる独特の縄張を持ちます。軍学の考え方を設計にそのまま持ち込んだ城で、屈曲のたびに横から矢や鉄砲を掛けら... -
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大阪城:秀吉の城は地下に眠る ― 徳川が埋めて築き直した城と、百トンの蛸石
大阪城は豊臣秀吉の城として知られています。ところが、いま園内で見上げる石垣も堀も、そのひとつも秀吉が築いたものではありません。大坂夏の陣で豊臣の城が焼けたあと、徳川幕府は残った石垣ごと土で埋め、その上に一回り大きな城を新しく築きました。... -
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江戸城:天守が二度と建てられなかった理由と、いまも残る富士見櫓・番所・天守台
【城名】 江戸城 【江戸城の説明】 江戸城の歴史は戦国時代よりもはるかに古く、平安時代から鎌倉時代にかけて江戸氏により築かれたと言われています。その後、江戸氏の没落とともに、戦国時代初期に扇谷上杉氏の家臣「太田道灌」によって城の改修が行われ... -
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広島城:毛利輝元が山を下りて築いた鯉城と、「広島」という名の始まり
広島城は毛利輝元が山を下りて築いた城です。太田川の河口に広がる三角州へ本拠を移し、そこにあった村の名を改めて「広島」としました。町の名が城とともに生まれたことになります。輝元は関ヶ原ののちに萩へ移され、代わって福島正則、そして浅野氏が入... -
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福山城跡:福島正則の改易のあとに水野勝成が三年で築いた城と、北側だけ鉄板を張った天守
福山城は、戦国が完全に終わったあとに築かれた、日本でも最後の時期にあたる近世城郭です。きっかけは福島正則の改易でした。安芸・備後五十万石を取り上げられた正則の跡へ、徳川譜代の水野勝成が備後十万石の領主として入り、三年をかけてこの城を構え...
