赤塚城跡(板橋区):家督争いに敗れた千葉氏が逃れた城と、眼下に広がった徳丸ケ原

赤塚城/アクセス・場所・地図 小田原北条氏の有力な家臣赤塚千葉氏の居城 赤塚城

赤塚城(あかつかじょう)は、武蔵野台地の北のへりに築かれた平山城です。康正二年(一四五六)ごろ、下総から逃れてきた千葉自胤が入ったと伝わります。天守や石垣を持つ城ではなく、台地の縁と谷を利用した土の城でした。小田原征伐で北条氏が滅ぶと廃城となり、城跡は今、板橋区の公園として残っています。眼下には、のちに徳丸ヶ原と呼ばれる広い低地が開けていました。

この記事のポイント
  • 家督争いに敗れて武蔵へ逃れた千葉氏が拠点とした城
  • 台地の縁と谷を利用した土の城で、空堀の跡が今も残る
  • 北条氏に従うのは入城から半世紀ほどのち、氏綱の武蔵進出以降
  • 城跡は公園として整備され、眼下の徳丸ヶ原は幕末の砲術演習の舞台になった

赤塚城本丸跡の石碑

本丸跡に立つ石碑。まわりは芝生の広場になっていて、土塁や櫓台の高まりは残っていない。

目次

赤塚城はどんな城だったのか

赤塚城があるのは、武蔵野台地が荒川の低地に落ちこむきわの部分です。城の北側は急な斜面で、その下はかつて沼と葦原の広がる湿地でした。南側には谷が深く入りこみ、台地を細長く切りとっています。人の手で高い土塁を築かなくても、地形そのものが堀と土居の役目を果たす場所でした。

本丸は現在の赤塚城址公園の広場にあたり、そこから南へ二の丸、三の丸が続いていたと考えられています。発掘では堀の跡や中世の陶磁器が見つかっていますが、城全体の姿がわかるほどの遺構は出ていません。江戸期以降の開墾と、近代の宅地化で削られたためです。同じ武蔵野台地の縁に築かれた城としては、練馬城や石神井城が近い性格を持っています。

空堀跡に架けられた木道

谷になった部分に木道と階段が通されている。城の南側を断ち切っていた空堀の名残と見られる一角。

赤塚に入った千葉氏とは何者か

赤塚城を築いたとされる千葉自胤は、下総千葉氏の一族です。享徳の乱のさなか、千葉宗家では家督をめぐる争いが起き、自胤の兄・実胤とともに一族の主流から追われました。兄弟は市川に拠りますが、そこも支えきれず武蔵へ移ります。自胤が赤塚に、実胤が石浜に入ったと伝わり、以後この系統は武蔵千葉氏と呼ばれました。

▽ よく語られる話
赤塚城は小田原北条氏の有力な家臣、赤塚千葉氏の居城だった。
▼ 史実ではこうです
赤塚に入った時点で、千葉氏は北条氏の家臣ではありません。自胤が武蔵へ逃れたのは享徳の乱の最中で、当時この地域を押さえていたのは扇谷上杉氏でした。武蔵千葉氏はその庇護のもとで赤塚に根を下ろしています。北条氏綱が武蔵へ進出し、千葉氏がその傘下に入るのは、入城から半世紀ほどのちのことです。北条家臣というのは最後の五十年ほどの姿であって、この一族の出発点は「家督争いに敗れて流れてきた側」でした。

下総の千葉宗家は本佐倉城を本拠として続き、武蔵千葉氏とは別の道を歩みます。同じ千葉を名のる家が江戸湾をはさんで並び立つ状態が、戦国の終わりまで続きました。両者が正面からぶつかったのが国府台城周辺での一連の合戦です。

北条の傘下に入り、そして廃城へ

大永から天文にかけて、北条氏綱・氏康は武蔵へ勢力を広げ、河越の川越城をめぐる争いを経て扇谷上杉氏を追いました。武蔵千葉氏もこの流れのなかで北条方に転じ、赤塚城は北条の支城網の一つとして荒川ぞいの守りを担います。江戸湾の湊と川越・岩付を結ぶ線上にあり、江戸城に入っていた北条方の太田氏とも近い位置でした。

天正十八年(一五九〇)、豊臣秀吉の小田原城攻めで北条氏が滅びると、千葉氏も所領を失い、赤塚城は廃されました。城として使われた期間はおよそ百三十年です。

赤塚城址の石碑

冬枯れの木立のなかに立つ石碑。「赤塚城址」の文字が刻まれ、根もとを木の幹が抱くように伸びている。

城の眼下に広がった徳丸ヶ原

城跡の説明板には、赤塚城とならんで徳丸ヶ原の名が記されています。徳丸ヶ原は城の北側に開けていた低地で、荒川の氾濫原にあたる広い原野でした。中世には湿地と葦原で、城から見おろす一帯がそのまま天然の堀の役目を果たしていたことになります。

この原が歴史に名を残すのは、城が廃されて二百年以上のちのことです。幕府に登用された高島秋帆が、西洋式の砲術と銃陣の演習をこの原で行いました。近くの松月院に本陣が置かれ、大砲の試射と洋式調練が実施されています。のちに一帯が住宅地として開発されたとき、秋帆の名にちなんで高島平と名づけられました。

中世の土の城の足もとに、幕末の洋式砲術の演習場が重なり、さらに現代の団地が広がる—この場所の地層はそういう並び方をしています。城跡に立って北を向いたとき、その広がりを思い出せるかどうかで、見える景色はずいぶん変わります。

赤塚城跡と徳丸ケ原の説明板

板橋区教育委員会が立てた説明板。赤塚城跡と、その下に広がっていた徳丸ケ原のことが並べて記されている。

赤塚城跡の訪ね方

城跡は赤塚城址公園として整備され、本丸跡は芝生の広場になっています。都営三田線の西高島平駅や新高島平駅から歩ける距離で、台地の斜面を登る階段が、そのまま昔の登城路の感覚を残しています。谷にかかる木道をたどると、城を断ち切っていた堀の深さが体でわかります。

公園の周囲には見どころが集まっています。千葉氏ゆかりの松月院、東京大仏で知られる乗蓮寺、板橋区立美術館と郷土資料館が徒歩圏内で、資料館では城跡の出土品も見られます。城そのものの遺構は少ない場所ですが、寺と資料館をあわせて歩くと、武蔵の土の城とその後の土地の歩みが立体的につながります。

所在地:〒175-0092 東京都板橋区赤塚5-30-21

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